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3.電車通勤で戸隠さん④

 就業時間になっても戸隠さんからはメッセージが届いていなかった。  うちの営業所の次の営業所がどうにもきな臭い、とは言っていたので、そっちの方で残業が発生しているのかもしれない。ただ誘ったのは彼なので、反故にすることはないだろう。なんとなく俺にはその考えがあった。  俺はすでに残務が残っていないPCの電源をおとして席を立つ。 「行くのか?」 「うん。お疲れ」  彼女からのデートの打ち合わせメッセージを待っている同僚に軽く挨拶して俺は退社した。  ジムの場所は知っている。隣の駅から少し歩いたところにある。途中にドラッグストアがあるから、そこでシャワーグッズをそろえることにした。 『仕事が終わった』  ヘトヘトになった目つきの悪い熊のスタンプとともにそのメッセージが戸隠さんから届いたのは18時前。俺はドラッグストアでの買い物を終えて、駅前のロータリーでぼんやりと携帯ゲームで時間を潰しているところだった。  本社からここまで電車で五駅ほどである。 『今、ジムの近くの駅前。二〇分後くらい?』 『うん。一緒に行きたいから、そこで待っててくれる?』 『いいですよ。駅ついたら連絡ください』 『ごめんね』  ウサギが泣きながら手を合わせていた。かわいい。  随分と季節は秋めいて、空は暗くジャケットの中を通り抜ける風もヒヤッとしてきた。なのに俺の心の中はほっこりして思わず口元に笑みが浮かぶ。  俺はスマートフォンを綴じて空を仰ぐ。  土壇場で待ち合わせの連絡をするなんて何年ぶりだろう。  学生の頃は友達にしろ、恋人にしろ、遅刻などはわりとよくあった。みんなスマホを持っていて、「遅れたら連絡すればいいや」くらいに思っている。生活の中心は常に自分で、だからこそ融通が利くものだと勘違いしてそれほど時間に対して厳密に考えなかったからだ。  社会人になるとそれでは通じないことがわかってくる。何回も叱られて、失敗して、チャンスを逃してすると、今度は恐怖に駆られたように猛烈なリスケをするようになる。その案配を調整するのが「優先順位を決めて」「先に約束したことを優先して守る」だけだと身につけるのに、自分の時間や精神力など、それなりのコストがかかった。そのコストを支払いきれずに社会からドロップアウトしていった同僚も少なくない。  そうやって社会に適応した者たちのデートというのは、割と時間にきっちりしている。職場が生活の中心になるから、その時間帯を優先にして動く。相手の都合と自分の希望をすりあわせて、約束した時間で待ち合わせる。ブッキングやわがままを通していては縁が切れる。そういうものだ。  そういう点において、俺が今まで付き合ってきた相手は社会の第一線で生き残ってきて、俺以外にも守るべき社会を持っている人たちだ。スケジュールの管理に抜け目がなく、そして時間に対して厳格だった。決められた場所、決められた時間にそこにいるのが当たり前だったのである。  こんな相手の遅刻を楽しむなんて気持ちは、久しぶりだった。  二〇分後、スマートフォンが通話を告げる。 「ごめ~ん! 今、どこぉ~?」  仕事中には考えられないほど情けない戸隠さんの声が聞こえた。その声があまりにもかわいらしくて俺は笑いをこらえる。 「お疲れ様です。西口のロータリーにいます。クリスマスになったらツリーの飾り付けする街路樹あるでしょ。その足下に座ってます」 「わかった。そこ動かないで。すぐに行くから」  そこで戸隠さんから通話を切ってくれるものだと思っていた。けれども彼は通話を切り忘れていて、俺もなんだか切りそびれて繋がったまま。  耳にあてたままのスマホからははぁ、はぁ、と荒い息が聞こえて色っぽい。  時々「西口って……どっちだっけ?」とかいう声も聞こえてかわいい。  かわいいけど、こんな方向音痴でよく一人でツーリングなんか行けるな、と心配にもなる。  すぐに駅の出口にすらっとした長身の姿を見つけて俺はスマホの通話を切る。立ち上がって手を振ると戸隠さんもすぐに見つけてくれた。  慌てた様子で走ってくる。俺の肩へ顔を寄せてぶつかった体を俺は受け止める。戸隠さんの柔らかい髪からは今日の昼の中華だとか、外回りで日に焼けたような乾いた匂いだとかがした。 「ごっめ~ん」 「うちの次の営業所、揉めたんですか?」 「それは言えない。言えないから言い訳もしない。お詫びに今日のご飯はおごらせて」 「じゃあありがたく、甘えます」  俺はどさくさに紛れてきゅっと戸隠さんをきゅっと抱きしめる。  スーツから見える項がおいしそうだったけれども、背中をトントンと叩いてから離れて二人並んでジムへと向かった。

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