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4.オム・ファタールな戸隠さん③
一時間ほどジムで汗を流し、9時過ぎには俺たち二人はLemonにいた。俺の前にはビール、戸隠さんの前には炭酸の入ったミネラルウォーターがある。料理が運ばれてきて、俺たちは乾杯した。
「まさか目の前で90キロベンチプレスをひょいひょいあげられるのを見せられるとは思いませんでした」
「あははは。鍛えてるのは上半身だけだよ。下半身は人並み」
「それでもレッグカールも10キロなんか結構軽々やってたじゃないですか。昔なんか運動してました?」
「まあそれなりにはねぇ」
戸隠さんは俺を上目遣いに見つつ、炭酸水で唇を湿らせてからラム肉のグリルを口にする。唇に滴る油とソースを舐める舌先が蠱惑的だった。
その姿を眺めながら俺はぐびっとビールを喉へ流す。
今までどんな来し方をして、今の姿があるのだろう。そういうのは戸隠さんに限らず付き合う相手全般に興味はある。歳の数だけ若い人にはない経験豊かな物語 と感性が魅力的だった。
戸隠さんとは年齢差15歳。これまで付き合ってきた中では比較的年齢差は少ない方と言える。
それでも俺がオギャーと生まれたころにはすでにこの姿のベースが出来上がっていたはずだ。
ゆったりと落ち着いた身のこなしに、物憂げな雰囲気と、意味ありげな視線。15の時からもうそんな雰囲気を持っていたのだろうか。興味がわいた。
ふと頭をよぎったのは田代さんだ。高校時代からの付き合いだということだから、学生時代の戸隠さんを知っているはずだった。
ただ戸隠さんは田代さんを避けていた。その理由が少し、気になった。
「野々上君は下半身中心だったね」
「あとは背中ですかね。あっちこっち走り回る営業なんで、足腰ダメにすると致命傷だし。なにより年取って駆動系ダメにすると、ほんとになんの楽しみもないでしょ?」
「だよね~」
「次の連休は? ツーリングですか?」
「ん~……そうだね。それもいいかも。ちょっと決算等々で忙しかったから、そのあたりをリサーチしてないんだけど」
「一人で?」
「そうだね」
「家族とか……一緒じゃないんですか?」
しれっと食事のついでを装って何食わぬ顔で言ってから、俺は内心後悔していた。鉄則だろ、と。
目の端に見える戸隠さんの手が止まっている。気を悪くしたのかもしれない。
らしくない。俺は自分を叱咤する。
これまでの付き合いだったら、家族の事は一切口には出さなかった。
出てしまったのは戸隠さんだから。
柄にもなく、自分本位の欲望で、俺は彼が欲しいと思ってしまっている自分を自覚した。
「……そういうこと聞いちゃう? 仕事終わりのデート中にさぁ」
戸隠さんの声は不機嫌だ。
しまったな。しくじった。そう思うけれどもそれで縁が切れてしまうならそれもいいか、と思うところもどこかにあった。
戸隠さんには家族がある。そんな相手の愛人として、分別をわきまえられない感情を抱くようなら、早々に縁を切るべきなのだ。ずるずると引きずってだいたい取り返しのつかない修羅場になっているのは同類を見ていてよく知っている。
「これってデートですか? てっきり弾よけに使われたのかと思ってました」
俺は努めてにこやかな笑いを作って戸隠さんを見た。
今日、ジムについて行って彼が俺を連れて行った理由がすぐに分かった。
戸隠さんがトレーニングを始めるたびに、周りの男性客たちはトレーニングに集中しているふりをしながら、視線だけは彼の動きに引き寄せられていた。注目しているのはその豊満な胸元だ。仰向けになると下着を着ていないので立ち上がった胸の突起が布地を押し上げる。戸隠さんも戸隠さんで力を込めるときに吐き出す吐息や鼻に抜ける声がいちいち婀娜っぽいので、ついついその気のない男まで耳をダンボにしてしまう。
ダンベルを持つ手が止まりかける者、ストレッチの角度を微妙に変えてその視界に入ろうとする者、そして鏡越しにちらりと様子をうかがう者。誰もが直接的な行動には出ないが、その目線には、声をかけるタイミングを探るような、微かな期待とためらいが混ざっていた。
――――だってここじゃあつけてもつけなくてもあんまり意味がないってわかったし。
戸隠さんがプラチナゴールドの結婚指輪を外した時の言葉を思い出す。
自分も御同類だからよくわかるのだが、こういう場で男女問わず色気溢れる戸隠さんのような人がいたとして、確かに指輪などは何の防御効果もない。むしろ世の中には「人のモノを奪って興奮する」類の性向 が存在している。その手の輩からしてみれば他人の所有の証は忌避すべき印ではなく、ラブアフェアのスパイスにしかならない。むしろ引き寄せる方向に働くことだってある。
近寄らせないために一番いいのは番犬を身近に侍らせておくことだ。
「キャンペーンだから、じゃなくて面倒な人を追い払うために誘ったんでしょ?」
「否定はしない」
否定しないのかよ。
変な素直さに俺は怒る気もしなかった。あまりに素直だから、俺の方も本音を口に出したくなってしまう。
俺は右手で彼の左手をとって自分の口元へ寄せると、薬指にはまったリングにちゅっと軽く音を立てて唇で触れた。
「知ってます? 俺も、狙ってるんですよ。彼らと同じように」
「でも野々上君はお友達でいいって言ったじゃない」
「言いましたけど、だからって弾除けに使ってもいいって思われるのは、心外だなぁ」
俺は意地悪に言って上目遣いに戸隠さんを見る。
彼は少し傷ついたような顔をしてふいっと視線を逸らす。その間もずっと俺は彼の滑らかな白い甲に、長く細い指に軽いキスを繰り返していた。
「戸隠さんに俺がどれほどハマってるか、教えてあげましょうか?」
毎日毎晩、右手の恋人は常に妄想の中の戸隠さんだし、月一回戸隠さんが営業所に来てくれることを心待ちにしている。
そのいい匂いのする項に、柔らかな胸に触れたいと思うし、こうやって夜を過ごしたいと思っている。
俺はそれらを戸隠さんの瞳をじっと見て、時折指の隙間にちろりと舌先で触れながら、熱心に口説き続けた。
戸隠さんは微かに指を震わせてはいたけれども、強く振り払おうとはしない。白い頬を少し赤らめて、俺にされるがままになっていた。
俺は左薬指へ強く唇で触れる。金属の冷たく固い感触がかちと軽く歯に当たる。それを軽くかんでから、俺は少し低い、それでいて強めの声ではっきりと言った。
「でも焦らないのはあなたには家族があるからだ。それでも惚れてしまうのは俺の問題だから、あなたに負担にならないようにしてた。それだけなんですよ」
「それは……知ってる」
戸隠さんは俺の手の上から右手を重ね、その上から額で触れる。それはまるで祈りの形に似ていた。
「君が僕の事情を踏まえてくれたのを知ってた上で甘えてた。ごめん。無神経だった。でも……信じてもらえないかもしれないけど……ジムに誘ったのは君と、一緒にいる時間を、僕も欲しかったからだよ。ひ、必死だったんだ、割と、デートに誘うの……って」
「え……」
俺は思わず顔がにやけてしまう。
戸隠さんは重ねた手に額をつけて顔を隠したままでちょっとパニックに陥ったような早口で言った。
「わ、笑わないでほしいんだけど、今まで自分から誘ったこと、ないんだよ、僕。だから、その、自分の中で、いいわけを探してて…………ごめん」
俺はそっと手を解き、左手で戸隠さんの顔を上げさせる。
普段、冷血漢と職場では大不評な白い無表情が、真っ赤になって恥ずかしがっていた。
――――入れて、みたいんじゃない、それ? いいよ……好きにしても。
――――いろんなお店知ってそうだから、連絡先交換してよ。
――――じゃあまた一緒に来ようよ。
――――言ってた町中華のお店ってどこ? もし並ばないとだめなら先に行って並んどくよ。
――――ね、僕が通ってるジムに、一緒に行かない?
――――ジムデート、できるけど? 僕のこと、好きなんでしょ? 週一で必ず会えるし、その後はLemonで楽しくお食事デートなんてのはどう?
これまで戸隠さんが年上の余裕を見せつけて誘ってきた言葉を思い出す。
その一方で隠して……誘って……試して……逃げて……挑発して……押しとどめて……というメンドクサイ距離の取り方をしていたこととの整合性がここで取れた。
きっと今まで自分から欲しがったことがないのだ。
それはそうだろう。あれほどの色気なのだから、あちこちから声はかかってきていたはずだ。現にジムではそうだった。これまでなら彼はそのなかから自分の必要とする相手を選ぶだけでよかったはずだ。
それが初めて通じない相手が俺だった。
しかし48という年齢とそこまで培われてきた人間関係の習慣のせいで、どうやって関わっていいかわからなかったのだ。なんとなく感じていたちぐはぐさの理由は単純に恋愛経験のパターンの少なさの結果だったのである。
うっわ……可愛すぎるだろ、この48歳。
「キスしていい?」
ナチュラルに心の声が零れた。
戸隠さんは困惑しきった顔で俺を見ている。俺は彼の両手を両手で包んで、まっすぐに見つめた。
「キス……させて。俺を、彼氏にしてよ、戸隠さん」
「野々上君……」
「キス、したい」
俺はぐいっと戸隠さんと距離を詰める。
戸隠さんは逃げなかった。唇の距離が近づくにつれて、かすかに震えながらゆっくりと瞼を下ろしていく。
軽く、触れる。
一度離れて角度を変えてもう一度。今度は舌先で唇の間に触れる。
また離れて、軽く、今度は何度も唇を押し付けるように交わす。
最後にペロリ、と舌で戸隠さんの唇を舐めて、俺は離れる。
震える瞼がゆっくりと開いて、俺を見つめる瞳が少し潤んでいるのが煽情的だった。
「大丈夫?」
「うん。野々上君……キス、上手いよね」
「誰と比べられてるのか、っていうのが気になるところですが、褒めていただいて光栄です」
「もう一回……いい?」
「喜んで」
にまっと笑って俺は戸隠さんの唇にそっと唇を重ねた。
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