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5.戸隠さんとツーリング②

 完全遮光カーテンの隙間から、高度の低い朝日が強く差し込んで、白い光の帯が睡眠に閉じた目元を刺す。それを避けるために俺は布団の中へもぐりこんだ。  ベッドの足元は何をする気にもなれずに過ごした土曜日の残骸があちこちに転がっている。へしゃげたビール缶の分だけ頭が痛い。  そんな朝にスマートフォンから軽やかなメッセージの着信音が響く。 「誰だよ……」  音は会社用のやつからではなく個人用のやつから。会社の同僚で個人用の連絡先を知っている奴はそういない。いたとしてもほぼ誰もかれも夜の世界に生きているので、こんな朝早くからメッセージを入れてくることはない。  あるとすれば、実家の母親くらいか。それだってめったにないことだ。  自分が家庭生活という人生のロールプレイで見事に失敗したせいか、俺が30過ぎても交友関係に口出しすることも別に結婚云々を尋ねてくることもない。ないのだが、父親がいなかったせいか何かあると俺を頼ろうとするのが、思春期ぐらいから心底うざったるかった。  昔は彼氏がひっきりなしだったのが、年と共にそうもいっていられなくなってきたからもある。付き合っている相手がいるとは聞いている。さっさと老後の共にしてしまえばいいのにと思う。  それでも家族の情というのはあるもので、俺は布団の中からもぞもぞと手探りで金属の板を探し、朝日を避けて布団の中で確認する。 『今からツーリング行こうと思うんだけど、一緒にどう?』  戸隠さんだった。  俺はがばっと起きあがる。布団が吹っ飛んだ、なんて冗談そのままに、掛け布団が朝日に輝く埃と共に宙を舞った。 『行きます!』  即答だった。  喜んで! と居酒屋の店員が威勢良く飛び出すスタンプを返す。 『少し肌寒いけど天気はいいし、日帰りで行ける距離で出かけようか。迎えに行くよ。どこで待ち合わせる?』 『いつも待ち合わせる駅のロータリーで。今から風呂入って用意して家を出るんで、一時間後くらいで』 『了解。丁度いいんじゃないかな。風が冷たいから、ちょっと暖かめの格好しておいで。ジーンズとブーツがおすすめ。上着はあれば革がいいけど、なければ丈夫めなジャンバーで』  よろしく、と白いクマのスタンプが手を振る。俺はそれに対して鯱張ったアニメのキャラクターが最敬礼するスタンプでYes! Sir! と返した。  一時間後、夜とはまったく雰囲気の違う隣の駅のロータリーに到着する。俺を待つバイクの姿はまだそこになかった。  自販でホットの缶コーヒーを二つ。少々分厚めの手袋を履いているので熱さは気にならない。太陽の熱を集めて黒いジャンパーは暖かいが、首元の隙を狙って入ってくる風はもう冬の匂いがした。 「バイクは……寒いだろうな」  ホカホカの缶をカイロ代わりにして左右のポケットに突っ込む。そこへロータリーに静かな重低音を響かせて、一台の大型バイクが到着する。  マルーンブラウン、もしくは深みのあるワインレッド色のクラシックなホンダのバイクだ。空冷式の4気筒で、ピカピカに磨かれた銀色のマフラーが青空と白い太陽の光を反射していた。  ノーマルより少し高めのハンドルに手をかけ、シッティングポイントが少し落とし込まれた長くフラットなダブルシートの前方に座るのは、経年によって飴色にこなれた茶色の革ジャンにバイカーグローブ、黒っぽいバイクジーンズにごつめのブーツ、フルヘルメットという戸隠さん。普段はスーツでゆるっと隠れている四肢の長い均整の取れたスタイルがはっきりとわかる。かっこよすぎて眩暈がした。  俺はバイクにさほど興味がある方ではないが、大切に手入れをされ、愛されているのがわかるこの機体には思わず胸が高鳴る。ワクワクしながら戸隠さんの方へ走り寄った。 「うっわ。めっちゃカッコいいじゃないですか。これが前に言ってた750cc(ナナハン)ですか?」 「HONDA EARA。貰いものだし、あんまり馬力があるとは言えない子だけど、舗装された平地をのんびり走るにはいいんだ」  かつん、とシールドが上がる。眼鏡のない戸隠さんの素顔が露になった。 「眼鏡は?」 「あれね、老眼用。近くが見えないんだよ、僕。遠くは割と見える」  一応持ってきているけどね、とバイクのリアエンドへ視線を向ける。銀色のキャリアの上に、車体色と同じ色のトップケースが固定されていた。  一旦バイクを停めて降りてきた戸隠さんがその中から真新しいフルフェイスのヘルメットを取り出して俺に渡す。 「荷物はそこの中へ入れたらいいよ」  俺は受け取ったヘルメットをまじまじと見つめる。自分では乗らないが、学生時代知り合いが乗っていて、自慢するので見せてもらったことはあった。  ヘルメットにマイクとたぶんイヤホンらしきものがついている。  どうやって被ったものかと悩んでいたら、貸してと小さく声をかけて、戸隠さんが付けてくれる。 「聞こえる?」 「あ、聞こえます。最近のメットにはこれってついてるもんなんですか?」 「標準じゃないね。運転中、いつもは一人だから風とエンジンの音しか聞かないんだけど、今日は二人だしずっとそれも寂しいかな、って思ってね」  メットのままで素顔の戸隠さんは微笑む。かわいい。  後を追って俺も恐る恐る戸隠さんの後ろに乗る。バイクの内側についたイヤホンから戸隠さんの声が聞こえた。 「大型だし、タンデム系でもあるんであんまり揺れないとは思うけど、いちおうニーグリップで」 「ニーグリップ? すみません。俺、バイクで二人乗りしたことなくって」 「こうやって僕がバイクに乗るように、両膝で僕の腰のあたりを抱え込むようにする乗り方ね」  手振りで教えられて恐れ多くも彼の引き締まった腰を股の間に挟み込む。合法的に白昼堂々自然と体が背中に密着する形になる。エロい。 「あと手はこれ」  戸隠さんは俺の手を取って、彼の腰にきゅっときつめに巻かれた取っ手付きのベルトを掴ませる。それもヘルメットと同じで比較的真新しい。 「タンデムベルトっていうんだけど、これを掴んでね。肩とか腕はダメ。コントロール失うから。しがみついてもいいけど、自分の手でベルトのハンドル掴んだ方がスピードが乗ってきたときは安定すると思う。曲がる時とブレーキかけるときは言うから体重移動気を付けて。あとは悪ふざけ禁止」 「子供じゃないですよ。車ですが免許は持ってます。運転主の心得は一応あるつもりです」 「信用してる。トップケースに背もたれがついてるから、疲れたら赤信号とかでちょっと離れて後ろにもたれても大丈夫。休憩したくなったら言って、聞こえるから」  こつこつと戸隠さんが自分のメットの耳元を叩く。マイクが拾った音が俺のヘルメット内にも聞こえた。 「どこ行きます?」 「んー……いつも決めないんだよね。海が見たいから、潮の匂いがする方かな」  アバウトな返答だ。なるほど、方向音痴でも困らないはずだ。風の向くまま、気の向くままなのだ。 「あ、でも帰りのナビは任せていい? 」  焦ったように早口で告げて戸隠さんは笑って誤魔化す。方向音痴の自覚はあるようだった。 「任せて」 「じゃあしゅっぱーつ。いくよぉ」  声をかけてバイクが走り出す。非常に滑らかな走り出しだった。そのままゆっくりと加速していく。車とは違う視点と開放感のまま、景色が流れていく。体を通り過ぎていく風は予想通り冷たかったけれども、戸隠さんが言ったとおりのんびりと景色を楽しむことができた。 「メットもベルトも、予備があるんですか?」 「ううん。ツーリングは基本一人だし。昨日はどっかでキャンプしようかな、とか考えてそのための買い物に出かけたんだけど…………野々上君のこと、思い出してさ」  俺は戸隠さんの背に身を寄せたまま、どきっとする。  確かに普段気ままな一人旅で、予備のヘルメットや同乗者を想定したベルトは本来は必要のない。  俺とのタンデムを思って、あれこれと必要なものをバイクショップで物色する戸隠さんを想像する。その上で今朝は慣れないデートのお誘いをドキドキしながらスマホに入力して、送信ボタンを押したのだ。  滾る。  密着した状態ではいけないと思うのに、戸隠さんの腰を挟む両太股に力がこもる。その間にじわっと熱が溜まってくる。 「赤信号だから、停まるね」  緩やかなバイクの減速に甘えた手が、するっと戸隠さんの胸に触れる。タンデムベルトを少し強めに巻いているせいか、胸のボリュームが服の上からでもしっかりとわかる。  イヤホン越しの戸隠さんの声が半分笑ったように甘く叱った。 「こらぁ。イタズラしない。悪ふざけ禁止」 「悪ふざけなんかしてないですよ」 「じゃあ僕の背中にあたってる、その固いの、ナニ?」 「バレたか」  俺はふふっと笑ってやんちゃな手をベルトのハンドルに固定し、戸隠さんの背中にぴったりと寄り添った。  温かい。いい匂いがする。  この状態でもすごく幸せを感じる。なのに人間とは貪欲なもので、もっともっとと求めてしまう。  肌で触れたい。直接。  それは俺だけじゃないはずで、どうしても我慢できなくなったお互いの体は、きっともっと熱いはずだった。 「高速に乗るからパーキングで少し休憩しようか。青になった。いくよ~」  バイクが滑るように走り出す。  やがて市街地から高速に入ると、潮の匂いを求めて俺たちは南へ南へと向かっていった。

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