17 / 54
5.戸隠さんとツーリング③
高速道路で二人乗りというのは、最初聞いた時はなかなか怖かった。
しかしバイクは常に最左車線を走り次々に右斜線を抜いて行く車を見送る。一人で乗っても最高速度は120キロが限界で、そこそこマッチョな成人男性二人で乗っているので100キロを超えるのは逆に無理らしかった。
「峠とかだったら下手したら125ccのスポーツタイプに追いつけないよね」
途中で止まったパーキング。
自販で買ったホットコーヒーを飲みながら、戸隠さんは自嘲気味に笑う。
俺は首を振った。
「追いつく必要ないでしょ。ベンツに必要なのはフェラーリのような速さじゃなくて乗り心地」
「上手い言い方だね」
普段、ゆるめのワックスで整えている髪は、ヘルメットをつけるために今日は無造作になっている。少し乱れたマットな質感のゆるりとした癖がついた髪を戸隠さんはかきあげる。眼鏡をするとどうしても仕事中の鋭さが残ってしまうけれども、裸眼の今はただただ穏やかでセクシーだった。
「戸隠さんって、いつからバイク乗ってるんですか?」
「原付も含めるんだったら16から」
「高校はOKだった?」
「ダメだったんじゃないかな。だけどバイトするためには機動力がないとさあ」
「え、バイトはよかった?」
「知らな~い。週末だけ知り合いのバイク便やって日払い現金貰ってるの、学内でたぶん僕くらいしかいなかったし」
ははは、と戸隠さんは笑う。
普段からどこか飄々としているとは思っていたが、どうやら破天荒な若者時代だったらしい。
「事故なく?」
「運良くねえ。免許はゴールドだから、保険安いよ」
戸隠さんはジャンパーの胸ポケットから運転免許証を取り出して見せてくれた。少なくとも暴走行為で警察に挙げられるようなことはなかったらしい。
次の更新日までが金色の帯で示された免許には原付、普通自動二輪、大型自動二輪、普通自動車の記載がある。それに加えて事務職にあるまじき資格を見つけて俺はまじまじと見なおした。
「え、大型特殊自動車? なんで?」
「このバイクをもらって帰るのに、トラックに積んで帰らなきゃいけなくて。ついでだし、なんかの転職の役にたつかな、って思って移動式クレーン運転士と玉掛けとリフトの免許も取ったよね」
「その頃にはもう営業所で経理やってましたよね?」
「うん。でもまあ、いわゆる就職氷河期時代で、今よりずっと上司が鬼で職場環境も給与面も業績も真っ黒けのブラックだったから、いつ辞めなきゃならなくなるかもわからなかったんだよね。手に職はつけないといけないとも思ってて」
お花ちゃんのような軽やかで柔らかい雰囲気で、さらっと重たいことを言う。今まで付き合ってきた戸隠さんと同世代やそれよりも少し上の人たちも不景気の焼け野原を生き残ってきた歴戦の猛者だったが、彼らと違って疲れ切った様子が見られない分、変な凄みがあった。
戸隠さんはバイクに寄り添うかのように軽く腰を預けて、丁寧に油で手入れされた濃い茶色のシートをバイカーグローブを外した左手でそっと撫でる。左薬指にはまったプラチナゴールドの指輪が初冬の陽光をはじいた。
古びた縫い目のひとつひとつをなぞるように、ゆっくりと撫でるその動きには、まるでそこに染みついた時間を巻き戻すような静謐な美しさがあった。
「このバイクは、父の遺品でね。山奥のぽつんと一軒家に祖父が暮らしてて、その倉庫に眠ってたのを引き取ったんだ」
「自分で整備を?」
「そうだね。叔父が……そういうのが好きで、手伝ってる間に自然と覚えて。今も雨が降ったらずっとガレージで手入れしてる。古い機体で部品を手に入れるのも年々難しくなってるし」
ぼんやりと過去を懐かしむ横顔を俺は眺める。それは仕事場でもジムでもLemonでも見せない、戸隠さんの一番素に近い顔のように思えた。
その顔をぱっと上げる。ふにゃっと笑ったようなたれ目が俺を見て言い訳がましく言った。
「でも僕がそうやってガレージに閉じこもってても誰も気にしちゃいませんよ。家族なんてのはね、子供が高校入っちゃたら寂しいもんです。給与さえ入れてればこっちに対しても自由にさせてくれるらしいんで、僕は勝手をしても大丈夫なの。いっくらでも」
それが俺が前に聞いた「家族」についての戸隠さんのアンサーだと気がつく。
これまで付き合った誰からもよく聞いた台詞だった。
「子供さん、高校生なんですか?」
「そ。娘が一人」
戸隠さんは手にした缶の中身を一気に煽った。
「勉強には向かないらしいから、高校卒業したら就職して、一人で暮らすんだって。入ってすぐで何を言ってんだって思うけどね」
言いぶりはあっさりしたようなものだった。それが逆にこれ以上の干渉を拒んでいるように俺には聞こえて、この話題を続けるのをやめた。
「すいませ~ん。ちょっと、いいですか?」
空になったコーヒーの缶を捨てに行って戻ってくると、20代くらいの女性二人が戸隠さんに声をかけていた。彼女らも季節的には少し重装備な感じの寒さ対策をしている。少し離れたところに125ccくらいのバイクが2台停まっていた。どうやら逆ナンされてるらしい。
「やれやれ……」
俺は少し駆け足で戸隠さんの元へ戻る。
戸隠さんは彼女らからの誘いを断るでもなく、かといって喜ぶわけもない。年齢相応のオジさんとしてまるで聞き分けのいい上司か父親のように対峙している。実際彼からしてみれば実の娘よりも少し上くらいで、やはり年齢的には娘なのだ。
社会的な利害関係がないのであれば間違いなくイケオジに分類されるセンスの良い外見と年齢的な安心感。彼女らが心を奪われた理由が俺には痛いほどわかった。
人数的にも自分たちが二人でこちらも二人。ツーリングを一緒にどうか、という趣旨であることは内容を尋ねなくてももわかる。
どうするのだろうか。
ちらっと様子を見ていると、戸隠さんはバイカーズグローブをつけて、ヘルメットを俺に渡してきた。声も顔も笑ってのるになんだが雰囲気が怖い。『静かな鬼モード』だった。
「遠慮しておくよ。彼氏とデート中なんだ」
はっきり言って長い足でひょいとバイクにまたがる。俺にそれとなく視線を送って後ろに乗るように指示すると、会話はここでおしまいとばかりにシールドを下げた。
Lemonで小うるさいゲイ達を黙らせるけんもほろろのあしらいに彼女らは縋るような眼差しを向けこそすれ、結局それ以上は何も言えなかった。俺はそれにごめんね、と小さく断ってから戸隠さんの後ろに乗ってタンデムベルトのハンドルをつかんだ。
バイクは彼女らに一瞥もすることもなく滑らかに走り出す。しばらくして戸隠さんが尋ねた。
「あ、ごめん。野々上君の意見を聞かなかったね。一緒がよかった?」
「いや、同じこと思ってたし。たぶん同じように断ってたと思う」
「そ。よかった」
戸隠さんの声は軽かった。
今度は俺が尋ねた。
「一人でツーリングするときにも声かけられたりします?」
「ときどきね~。でもだいたいはグローブ外して指輪見せてたら近づいてこないよ」
「そうですか? 旅行先って逆にそういう既婚者狙いっていませんか?」
「そういうときは楽しそうに今から妻の実家に行くんだっていうと、大体引くよね」
「なるほど」
いろいろとやはり年の功だ。
俺は戸隠さんの背中にぴったりと身を寄せる。バイクの振動の中に彼の心音を感じたかった。
高校生の娘がいる。その事実が思いもよらず俺に重たいボディーブローをかましていた。逆算したら大体今の俺と同じくらいの時にできた子になる。
――――僕だってそうだし。
Lemonでそう言っていたけれども女性とセックスして子供を作ったのだ。
ゲイなのに。
というのは実はノンケの偏見だ。ゲイでも女の人相手にセックスできる人はいるし、ノンケだと思っていたのに男女間のセックスに満足できずに同性に満足を求める人もいる。別にめずらしいことじゃない。特にこの国では。
男は結婚して、子供と家を持って、一家の大黒柱となって、経済的に家族を支えてこそ一人前であり当たり前。それを強いる風潮は倫理から税制に至るまで浸透している。
逆に言えば社会が提示する課題さえクリアしてしまえば、後は好きにしていいという逃げ道を心の中に作りやすい。リタイア世代が課題の完全消化で燃え尽きて未来を見いだせなくなったり、逆に失われた時間を取り戻そうと躍起になってしまう理由だった。
俺はそういうオジさん達が好きだ。
彼らが男ゆえに満たしきれなかった欲望を満たして、倒れそうになる自分の芯を立て直して笑顔になってくれると嬉しい。
でもそうなると大体みんな家族の元へ戻っていく。それを見送るのは少々寂しい反面、達成感があったりもする。
恋なんかではない。
もう恋も、しない。
そう思っていたのに、戸隠さんに対してすごく女々しくなっているのを自覚する。さっきの女の子達や戸隠さんの奥さんや娘さんにすら、嫉妬していた。
らしくない、と自己嫌悪が沸いてきた。
そのせいで沈黙してしまったのをどうとったのか、戸隠さんが尋ねた。
「指輪……はずそうか?」
優しい問いかけだった。俺は背中につけた頭を左右に振った。
「それも含めて、戸隠さんでしょ。まるごとのあなたが俺は好きなんだよ」
そう言うと、今度は戸隠さんが黙ってしまう。
「戸隠さん?」
「フルヘルメットじゃなかったら、渋滞かインター降り口の信号でキスできたのにな、って思ったの」
「ふふ」
拗ねたような口ぶりに、俺は思わず嬉しくなって含み笑いをしてしまう。
「それ、俺も思ってた」
戸隠さんがアクセルを操作してエンジンが回転を速める。そうやってバイクはゆっくりと速度を上げていった。
ともだちにシェアしよう!

