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6.秘密の戸隠さん②
「おや、今日は一人かい?」
ジムでの予定を消化して一時間、軽く汗を流そうとシャワールームへ向かう際、更衣室へ向かおうとする田代さんと出会う。
「美弥は?」
「お忙しいようですよ。今日は本社会議だそうで」
「ははあ。例の件かな」
さすが人事部は耳が早い。たぶん彼の頭の中にも俺の頭の中にも同じ案件が浮かんでいるのだと思われた。きな臭い、別の営業所の件だ。どうやら具体的な話ができる材料が揃ったらしい。
「経理の役付が集まってたんだったら、そうでしょう」
「さて、どういう話になるのか。そこでの決定はすぐにうち にあがってくるだろう。明日が楽しみだな。美弥はいつも面白いネタを持ってきてくれる」
俺がつい最近になってやっと知った彼の名前を、田代さんは呼び慣れた様子で言う。そりゃあ高校時代からの付き合いなのだから当然だろう。
半分嫉妬、半分興味。
俺は彼から戸隠さんの若い頃の話を聞きたくて、自販機のある休憩ルームへと誘う。田代さんは素直についてきた。
「学生時代から名前で?」
茶色の瓶に入ったビタミンドリンクを手に俺は尋ねた。田代さんはペットボトルに入ったミネラルウォーターを口にする。
「高校の中頃ぐらいじゃないかな。最初、俺も名前の呼び方がわからなくて、戸隠って読んでたんだ。それを周りがミヤって時々呼んでたから、ああ、そうなのかって思ってそう呼びかけた」
「どうなりました?」
「有無を言わさず殴られた」
「ああ~……やっぱり。確かにそう読めますけどね」
俺はにやにやと緩みそうになる顔をできる限り無表情に保つ。
ダウトなのだ。それもかなり地雷的な感じで。
人前でミヤちゃんって呼んだらぶっ飛ばす、と俺はツーリングの帰りに笑顔で注意されていた。
田代さんによるとあの外見 で男子校だったこともあって、下世話なちょっかいをしょっちゅうかけられていたらしい。
そこへきて名前の字が直感的に『ミヤ』と読めるから、それでよくちゃん付けされてからかわれていた。田代さんが聞いたときもその下世話なちょっかいをかけられている最中だったのである。
ツーリングの際に戸隠さんが『冷静な鬼モード』で注意してきた理由を詳しく聞かなかったが、こういう黒歴史があったからだったのだ。納得した。
「一年生の時は手当たり次第にポケットに忍ばせた乾電池を握った拳で眉間に一撃KOだったよ」
「武闘派だったんですね」
「あれでね。外部生だったしな」
二人は私立暁星高等学校で出会ったという。
私立暁星高等学校といえば小学校から高校一貫の男子校で、だいたい金持ちの英才教育を受けた奴が行く事で有名だった。ホモソーシャルの固い絆によるものか、卒業生は各界の重鎮として強固な学閥ネットワークを作っている。
田代さんは小学校からそのまま進んできた内部生というやつで、戸隠さんは高校入学からの外部生というやつだった。
「入学式の噂で、近隣でも有名な喧嘩無敗の凶悪中学生が入学しているって話と極上の美人が1年生にいるって噂が同時に上がってたんだが、まさかそれが同一人物だとは誰も思わなかった」
それが戸隠さんだった。
16で原付免許をとって週末に現金手渡しのバイトをしていたと言っていた。
本人はそれが許されていたのかどうかについて「しらなーい」ととぼけていたが、学生の本分を何よりも重んじて、それ以外の時間を無駄にすることを許さない暁星のような名門校で許されていたはずもない。その中で学生ができる仕事、それも学校に見つからないでやれる現金日払いなど業種は限られる。
昔何かの運動していたのかと前にジムで聞いたときは、それなりに、としか戸隠さんは答えなかったが運動ではなかったのだ。彼の筋肉の基礎を作ったのはたぶん肉体労働と間違いなく喧嘩だった。どうにも暁星生としては畑違いが否めない。
「どうして戸隠さんは暁星 に?」
「さて。家庭の事情らしいな」
「田代さんは詳しいことを戸隠さんからは?」
「聞いたことはある。だがそれは『極めてプライベートなこと』だから私の口からは言えないがね」
田代さんは少し苦々しい顔を見せて眉尻を下げる。
俺が知っている彼の家庭の事情は祖父が田舎の山奥でぽつんと一軒家にすんでいたこと、父親がすでに亡くなっていること、バイクが好きな叔父に手ほどきを受けたことだけ。
母親や祖母といった女性の存在が薄いが彼女らはどうしたのだろうか。複雑な事情というのはそのあたりに関わりがあるような気がした。
「彼はいろんな意味で人の目を惹く男でね。そこで自分を守り通そうと思ったら、何らかの力がいる。財力がないなら、武力に頼るのは最短ルートだ。所詮お坊ちゃま校の内部生なんてのは、政治力はあっても武力で凄まれたら誰もかなわないしな。しかしそのままでは彼が悪くなくても政治力で負ける恐れがあった。俺はその後始末に弁護してまわるのが仕事だった」
当時、田代さんの父親は血族経営系のそこそこの企業の重役をやっていたので、学内政治ではそこそこに影響力があったのだ。「昔の事だけど」と田代さんは苦笑いをした。
「『いつも持ってくる面白いネタ』ってやつ、ですか?」
「そう。そこからの腐れ縁だ。ただかくいう俺も、彼に恋をしていた一人でね。その腐れ縁を無意識に利用していた。好きだったと気が付いたのは結婚が決まる直前だったがね……」
田代さんは父親が亡くなって家業を整理し、うちの本社に中途採用で入ってきて、戸隠さんと再会した。
「ほぼ10年ぶりに会った彼は、高校時代とは違う魅力があったよ」
結婚することで忘れようと、心の奥底に封印したはずの恋心が蘇った。
それでもかつての友情を裏切りたくはなくて、田代さんはずっと気持ちを打ち明けずにいたという。
娘が結婚して、孫ができて、妻が第二の人生を始めようとする中で、ふと自分の人生に一区切りができたそのときに、目の前にあった戸隠さんの魅力についに抗えなくなった。
「君と出会う少し前に、ジムの帰りにずっと好きだったんだと、伝えてしまった。そうしたら次に会った時に君を連れてきた」
――――彼氏で~す。
田代さんに初めて出会った時冗談めいた口ぶりで、強い拒絶と警戒を見せていた理由。
友人の思いがけない求愛を拒否していたからだ。
戸隠さんにとって田代さんはやはり信頼のおける友人であり、彼と同じ目線では互いを見られなかった。
――――遠慮しておくよ。彼氏とデート中なんだ。
一方で、ツーリングの時は俺とのデートを邪魔されることに憤り、『静かな鬼モード』できっぱりとそう言った。そこに田代さんへ見せたような誤魔化しは見られなかった。
彼氏認定、してくれてんだなあ。
そうして欲しいと言った俺の願いを、戸隠さんが受け入れてくれている事実をかみしめて、緩んでいく顔を唇を噛んで誤魔化した。
田代さんはひょいっとそんな俺の顔を覗き込んで尋ねた。
「ところで野々上君って、ほんとに美弥の彼氏なのか?」
ここははいと答えていいものかどうか迷う。
本音としては声を大にしてはいと言いたい。
しかし個人的な性向を理由にして職場上の不利益を与えることは昨今法的に許されていない。
同時に自分から知らしめることも許されていない。
第一聞くこと自体がコンプラ違反。俺はそのラインで逃げることにした。
「人事部長。それを聞くのはアウトですよ」
「ここは会社じゃないだろう」
「会社じゃなくても俺たちを繋ぐのはオフィシャルな関係でしょう。会社じゃないからって俺が今の話をここで言いふらして部長は許せますか?」
「許さんね」
「そういうことです。田代さんの言葉をお借りするなら、それは『極めてプライベートなこと』でしょう?」
田代さんだけが持つ戸隠さんの過去を隠したことへちょっとした意趣返しを俺はしてやった。
その意図を田代さんは敏感に受け取ったようだったが、そこから変な詮索をされるのを恐れて、俺は言葉をつづけた。
「それに戸隠さんは既婚者だ。好きだと言われて応えられる訳がない。だから俺を使ってそういう言い方で逃げたんじゃないですか?」
「既婚? あいつ、結婚してたのか?」
「え?」
俺と田代さんの間に変な空気が漂った。
「結婚指輪、してるでしょう?」
恐る恐る尋ねた俺に、田代さんは眉間にしわを寄せて唇を尖らせる。
「そうだったかな。あんまり会社でそこまでみていなくてね」
「娘さんがいるって」
「娘? それが本当なら、水くさい話だな」
田代さんは鼻から大きく息を吐いた。
戸隠さんとは高校入学時から大学卒業時まで一緒でいったん別れたが、実は田代さんの父親が亡くなるまで会うことは少なくても割と頻繁に近況報告などの連絡はとっていたという。
その後、田代さんが家業をたたみきって今の会社で再会するまでは余裕もなくて本当に必要最小限になっていたけれども、まったく縁が切れたわけではなかった。年賀状やメールなどで細々と近況を伝え合う程度でのつながり続けていたし、田代さんの今の会社への再就職を戸隠さんが紹介したのはその縁だ。
「だから結婚したというなら、式をしなくても連絡くらいくれるはずだ」
「事実婚では?」
「かもしれないな。年末調整書類を確認すればわかることだが……」
「……個人的な理由で調べたら職権乱用ですよ、人事部長」
「君は真面目な男だね、野々上君」
「普通です」
「ふむ……」
田代さんは難しい顔で遠くを眺める。
そうして一言、
「あいつも大変だな」
と呟いた。
大変とは何なのだろう。
家族にほったらかしにされてることだろうか。
「あの……なに、が?」
俺がそう尋ねると、ちらっと俺の方を見て、ぐいっとペットボトルの水を飲みほした。
「美弥は叔父の妻を扶養しているはずなんだ」
「扶養?」
「彼の叔父というのが美弥の恩人になる。しかし彼は15.6年ほど前に亡くなってしまわれてね。それ以降、彼の家族を経済的に支えているはずなんだよ。結婚したとするなら家族以外にも彼女も面倒見ている訳だから、大変だろうな、と思ってね」
「どうしてそんなことに?」
「そのあたりは俺もよく知らないし、まあ、『極めてプライベートなこと』に関わる話になるから、あまり詳しくは聞いたことがないけれどね」
田代さんは空になったペットボトルに蓋をして、ゴミ箱の中へ捨てる。腕にはめたSmart Watchを見ると、時間だとばかりにじゃあ、と軽く挨拶して去っていった。
俺はその背中をじっと見つめたまま、しばらく動けなくなっていた。
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