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6.秘密の戸隠さん③

 玄関の鍵を回す音とガサガサというコンビニのビニール袋の音が静まり返った部屋に小さく響く。  革靴を脱ぎ、ネクタイを緩める。タイマーでエアコンの入った部屋で俺は深く息を吐いた。  リビングの灯りをつけて小さなテーブルに買い物の袋を置いて、代わりにテレビのリモコンを手に取って電源をつける。刑事もののドラマがしていた。音は小さく何を言ってるのかわからないが犯人が追い詰められて独白を始めているようだった。  コートをクローゼットのハンガーにかける。ポケットの中に入ったスマートフォンを確認する。まだ戸隠さんからの着信もメッセージも入ってきていない。  連絡が入ってからにするか、どうするか。シャワーのタイミングを計る。  少々悩んでから先にバスルームへ向かう。田代さんと話している間に汗が引いてしまって、シャワーをしてから帰ろうという気が削がれてしまった。その上で田代さんが言及を避けた『極めてプライベートなこと』。それが気になってLemonにも寄らないまま帰ってきてしまった。  シャワーを浴び、湯気に包まれながら、今日の疲れをさっと洗い流す。この間にも戸隠さんからのコールが入っていたら、と思ったら落ち着かなかった。  温かい部屋で腰にバスタオルだけの姿で戻る。テーブルの上のスマートフォンを手に取り、画面を眺める。まだ連絡はこない。  こちらからメッセージを送ろうか。  考えてからやめて、気晴らしにSNSを眺める。誰かの誕生日、誰かの旅行、誰かの子ども。画面の向こうの生活が、テレビの小さな音をいやに大きく聞こえさせる。  ふと開けっぱなしになっていた遮光カーテンの先、窓の外を見る。隣のマンションの部屋に灯りがともっている。開け放ったカーテンのむこうで誰かが笑っているのが見える。俺は目を細めてそれを見守る。カーテンを閉めてから、クローゼットをあけて着替えをとりだした。  ぼんやりとテレビを眺めながらコンビニで買ってきた一本目のビールの缶をあける。夜食代わりは竹輪。味気ない。  テレビが各社今日最後のニュースを報道する頃になってテーブルの上でスマートフォンが小さく音を立てて震えた。  画面には戸隠さんの名前が表示されている。俺はビールも竹輪もそっちのけでスマートフォンの通話ボタンを押した。 「もしもし?」  可愛らしい舌足らずな猫なで声。  誰かなんて名乗らなくたってわかる。  それが疲れで少々眠そうなのがさらに可愛い。  さっきまで女々しくいらいらしていたというのに、朝露を得た鉢植えのように乾いた心が瑞々しく喜びで満ちていく。 「お疲れ様、美弥さん」 「おつかれ~。今、大丈夫? 外だったらかけ直すけど」 「今は家です。ジムには行ったんですけど、Lemonには寄らずに帰ってきました」 「あ、そうなの?」 「一人で食べるのも、なんか味気なくて。ビールだけ飲んでました」 「それ、僕のせい?」 「そうかも。飢え死にしたらどうしてくれるんですか?」  俺の少し意地悪な甘え方に戸隠さんふふふ、と笑う。  心配しすぎれば家族になってしまうし、甘えすぎれば重荷になる。愛人というのは自分の置かれた曖昧さに慣れなくては務まらなかった。 「会議、どうでした?」 「はぁ、地獄だった。マジ、拷問」  普段の飄々とした紳士然とした様子からは思いよらない荒い言葉遣いと疲れて掠れた声にどきっとする。ただ今日は田代さんから戸隠さんの若い頃の武勇伝を聞いていたので、幻滅するほどのショックではない。むしろこっちの方が彼の地に近いのではないかと思ったら、ちょっと嬉しくなった。 「聞いてくれる? 16時から始まって、終わったの22時よ。帰ってきたのさっき。三時間? 四時間?」 「六時間」 「あ゛~! もう時間の感覚すら狂ってる。で、結局何が決まったって? 何もだよ。何も進まないことが決まっただけだ。実にだったね。時間の無駄という意味で。それだけ長時間かけて、何もなしって逆に才能だと思う」 「え? 本当に? なんの時間だったんですか?」 「わかんない。少なくともはっきりしてるのは『会議』じゃなくて、『老害の独演会』だったってことかな」 「老害……」 「あの人たち、議論を進めるんじゃなくて、議論を迷わせるプロだよ。部長くらいまではまだ話が通るんだけど、役員! あの年寄り連中さ、なんであんなに話が長いの? しかも内容がない。数字の意味もちゃんと理解してないから、問題の本質が見えてないの。なのにパラパラッと資料めくって神妙な顔して、見えてる風を装って偉そうに語るの。あれ何? もうね、芸術だよ。『これは根本的な課題だと思うんだよね』って言いながら、根本からズレてるの笑える。いや、笑えない。むしろ泣ける。話してる内容が表層の泡みたいなものでしかない。深みゼロ。むしろマイナス。その上で突然『こういうのやってみたらどうだ?』って、まるで思いつきの落書きみたいな提案してくるの。しかもそれ、誰がやるのかって? そこは言及なし。全員下向いたよね。本人たちが大鉈を振るう気がないならやるのは僕らの誰かじゃない?」 「うわ~……」  戸隠さんの普段が普段なので、こんな立て板に水が流れるような罵詈雑言が滔々とあふれ出てくるという状況だけで、その会議の悲惨さが思い知れそうだった。  しかし守秘義務に関わる業務の本質には決して触れないというところはさすが仕事人と感じる。感じるからこそ、無能でありながら株の保持数と管理職という名誉と在任年数と年齢でただただ威張り散らしている役員が許せないであろうとも思った。 「もう部下に丸投げ。責任は取らない。そのくせ成果だけ欲しがる。実現性ゼロ。目的も不明。でも『俺が言った』という事実だけが最重要。まるで自分の影響力を誇示するためだけに会議開いてるみたいでさ。あと、『俺が言えば動く』みたいな空気出してくるの、ほんとやめてほしい」 「ああ~ありますねえ、そういうの。年配の座ってるだけオジさんとか、自称デキる系上司とか」 「まさにそれ! もうね、誰も動いてないのよ。むしろ空気が凍ってたし。あの人たちの影響力って、ただの『場の空気を重くする力』だよね。特殊能力か何か? 『君たちでうまくやってくれると信じてるよ』って、信じてるのは自分の無責任さだろうって話だよ。責任感のない信頼ほど、迷惑なものはないね。ああ、もうほんと、会議ってなんだっけ? 決める場? 共有する場? 違うね、あれはただの苦行だった。精神と時間の浪費。僕の寿命、確実に削られてる。誰かがそろそろまとめませんか? って止めると議論の途中で遮るのはよくないって言われるし。議論? あれ、議論だったの? ただの独り言の応酬じゃなかった? ってある意味、感動したよ。あそこまで無駄を極められるのは、才能だと思うね! 残業代分払っていいから逃げたかった」  「なんでそんなことになるんでしょうかね」 「問題にかかわる部分が役員たちにはアンタッチャブルな領域だからだとは思うけどね。普通は部会に役員なんか参加しないのに、わざわざ出向いてきたってことはそのあたりに関わることなんでしょ。知らないけど」 「結局どうなったんです?」 「議題は経理部長が預かって、内々に人事と話するらしい」 「田代さん?」 「そうじゃないかな。しらないよ、もう」  受話器の向こうで大きく息をつく。そこでようやく少々落ち着けたようだった。 「楽しみにしてましたよ。戸隠さんは面白い話をいつも持ってくるって」 「話したの?」 「今日、ジムで会いました」 「あいつ、逃げたな。ほんとは田代含めて人事も参加しなきゃダメな会議だったと思うけどね、今日のは」 「役員が来るってわかった時点で、人事は一歩引くでしょ。おおよその地獄が予見できるでしょうし」  そう。人事とはそういう社内力学に非常に俊敏な人たちの集まりだ。だからこそ出世コースなのだろうし、うかつな行動もしない。触らぬ役員に祟りなしなのである。 「確かに勘はいいね。昔から」 「だから美弥さんがトラブル持ち込んで、田代さんが片付けてたんですか?」 「そんな話したの、あいつ。そのトラブル、僕のせいじゃないからね」 「知ってます。聞きました」 「あ、聞いたんだ」 「美弥さん魅力的ですからね」 「そんな言葉、社会に出てから聞いたことないけどね」 「そうですか? ツーリングの時に逆ナンされてたでしょ?」 「焼き餅焼いた?」 「ちょっと。でも美弥さんが『彼氏とデート』って言って追い払ってくれたから、もう忘れました。電池握ると握力があがるって都市伝説かと思ってました」 「人によるんじゃないかな。僕、指が長いからね。普通に握ると指が余るんだよ。それで殴ると力はいんないし、手首痛めるからさ。なんか握るとちょうどよくて」 「それで殴られたって、田代さん」 「だから野々上君にも言ったでしょ? 人前で言うなって」 「ほんとだったんですね。冗談かと思ってました」 「人前で言わなきゃ注意でとどめてたんだけどね、嬉っそうに朝っぱらから大声で呼ぶから、振り向きざまに笑顔で右ストレートよ」 「今の美弥さんからそんな物騒な言葉を聞くとは。映画に出てくるマフィアのボスみたいですね」 「ああ、あの映画ね。野々上君、映画見るの?」 「たまに。ネットのサブスクでもみられますけど、やっぱり大画面でみたいじゃないですか」 「字幕派? 吹き替え派?」 「その時々ですね。大体は字幕です」 「あ、一緒だ」 「よかった。今度一緒に映画見に行きます?」 「いいね。金曜の夜なら気兼ねはいらないから、ジム行って、Lemonで食事して、レイトショーとか?」 「プログラム、見ときますよ。でも朝帰りしていいんですか? 所帯持ちなんでしょ。不良だなぁ」 「いいのいいの。僕なんてね、ただのATMな訳だからさ」  そこまで言って、戸隠さんの方でごそごそがさがさという音がする。少し音声の幅が広角になって、マイクを入れたのだとわかった。 「ごめんね。ちょっと着替えさせて。帰ってきてすぐに電話したからさ、そのまんまで……」  俺はテーブルの片隅においていたスマホフォルダーにスマホを置いてスピーカーにした。 「今、カメラをオンにとか、できます?」  尋ねると、少し待ってねと言ってから数秒後に画面に戸隠さんの姿が映った。こちらもカメラをオンにする。  戸隠さんは確かに会社から戻ってきたそのままというスーツ姿で、心なしか寝癖とは違って髪が乱れている。  イラだって掻きむしったな。  拷問のような会議のなかでいつも通り冷静に見せながら腸煮えくり返っている姿がすぐに想像できた。 「カメラオンにして、ナニするつもりなの?」 「着替え、見せてくださいよ」 「えー……アラフィフオジサンの着替えなんて見て、何が楽しいの?」  と言いながら声が艶っぽい。カメラを通して見た部屋の中には大きなベッドと冷蔵庫が映った。一戸建ての一室というよりはワンルームの部屋のようだった。 「楽しいですよ。触れられないなら、それを寝る前のオカズにしてですねえ」 「じゃあ僕だけ脱ぐのはフェアじゃないんじゃない?」 「脱ぎましょうか?」 「脱いでよ。野々上君の裸……見たいな」  言われて俺はためらいなくスウェットの上を脱ぎ捨てた。 「相変わらず良い体してるねえ」  画面の向こうでほうっと戸隠さんの顔が艶めく。 「戸隠さんだって。ねえ、カメラに全体が入るようにして、脱いでいってよ」 「変態」 「嫌いになった?」 「ううん……興奮してる」  小さく白状してするっと戸隠さんは立ち上がる。どこまで離れればいいかは俺が指示して、ちょうど広角のスマホカメラが頭から足首くらいまで捉える場所と角度で戸隠さんは立ち止まった。 「家族が来たら、どうしよう、ね?」  俺がいたずらっぽく尋ねると、ふるっと小さく体を震わせる。 「鍵……かけてるから……大丈夫」  戸隠さんはゆっくりとスーツのジャケットのボタンを一つ一つ外し、肩からするっと落とす。  ネクタイをするりと緩め、こちらもスーツのジャケットの上に落とす。  シャツはやはり胸元の4番目あたりのボタンをパツパツに引っ張っていた。首元からボタンを外していくと3番目を外した段階でふくよかな胸筋があらわになり、4番目のボタンはひとりでにぷつんと外れた。  5番目に手をつける前にウエストのベルトに手をかける。かちゃかちゃというふれあう金属音と、スラックスのジッパーを下ろす音が卑猥に聞こえる。それがすとん、と足下へ落ちて俺は画面に釘付けになった。  シャツガーターと靴下ガーターだ。  これまで付き合ってきた人の中にもそういう人はいたが、戸隠さんの足に絡まる黒いベルトの存在はこれまでの人とは比べものにならないほどにセクシーだった。  カメラに写っていない俺のムスコがギンギンにおっ勃っていて痛いほど。ごくり、と生唾を飲んだ。  そんな俺に戸隠さんは少し恥ずかしそうに体の角度を変える。肩越しにちらりとこちらを見る姿がなんとも扇情的だった。 「野々上君…………目が……怖い」 「え、こっち向いてくださいよ。ベルトっていつもしてるんですか? 前にジムで着替えたときは、見てなかった気がするんですけど……ぉ」 「ジムの時は着替えがメンドクサイから会社を出るときにシャツベルトは外してるし、靴下も短いやつなの。普段はこれしてないとシャツの裾が出てくるし、靴下も下がって蟠るから……」  そうなる理由は簡単だ。ウエストや足首の細さに対して胸筋と脹ら脛の膨らみが大きいから。その肉々しさがあるからベルトというアクセントがイヤらしく見えるのである。  俺の視線は画面に釘付けになったまま、右手が自然といきり立つ肉棒へと伸びる。スウェットの下をずらして、じっとりと湿って染みをつけた下着から引き出したそれは、手に唾液なんかつけなくても先走りでヌルヌルになっていた。 「こっち……向いてください。美弥さんの肌が見たい、です」  荒くなる息の合間の俺の声は興奮でじっとりと熱く湿っていた。  戸隠さんは少し顔を赤らめて困ったような顔をしながらも、体の角度をカメラの方へ向けて着替えを続行し始める。  ゆっくりとシャツのボタンを外す。合わせの間から見えたのは布面積が少ないブリーフだ。これもジムではシャツの陰に隠れて見えなかった。  ウエストは腰骨のあたりにあって股上は短く、すぐに足の付け根と同じラインのわたりになっている。腹筋と腸腰筋群の線が綺麗に見えて、その延長線が消えた先にある膨らみはどちらかというと大きめな方だった。 「その下着って……後ろ、Tバックだったりします?」  俺の問いに戸隠さんがこくんと頷く。 「トランクスもボクサーも、布ががさついて苦手なんだよ」  ぼそぼそと言い訳をして、真っ赤になった戸隠さんはシャツガーターを外しにかかる。その間、画面から目が離せない俺の右手は忙しなく、時にねっとりと滾る肉棒を弄んでいた。  ストリップ劇場みたい。  一枚、また一枚と戸隠さんの包みが解けておいしそうな中身が露わになる。靴下を取り払ったところで、戸隠さんはちらっとカメラを見てから、背を向ける。そうして布地の少ない下着を下ろして、ゆっくりと片足ずつ抜いていった。 「…………っ!!」  イッた。唐突に。  シャツや足の陰で見えそうで見えないその角度に脳天を殴られたような興奮がつきぬけて、気がついたらいつまでも筒先から吹き上がる白濁で裸体の腹や胸の一部や筒先を覆った俺の右手がべとべとになっていた。 「は……反則。なんで下着を?」 「ん? だって気持ち悪いから」  そう言って戸隠さんは緩い半ズボンみたいなトランクスに着替える。白いワイシャツを落として現れた鍛え上げられた上半身を包んだのはぴっちりと張り付く速乾性のスリーブシャツだ。迷彩柄でわかりにくいが角度が違うと豊かな胸のラインに慎ましい突起の高まりが見える。それがまた俺の興奮を刺激した。 「はい。お待たせしました」  すっかり着替えてしまった戸隠さんはすっきりしたものだ。対する俺はカメラに見えていないところで白濁にまみれて大惨事になっていた。 「で、野々上君のお話は?」 「すいません…………今、全部吹き飛びました」 「とりあえず着替える? たぶんドロドロなんじゃない?」 「…………確信犯、ですか…………っ!」 「ははは。若いねえ」  戸隠さんはそう言ってカメラの向こうで軽く笑っていた。

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