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6.秘密の戸隠さん⑤
翌朝、俺はいつもよりもずいぶん早い電車に乗りこんだ。
――――明日の朝、一緒に本社近くのカフェでベーグル食べましょう。
昨夜のリモート飲み会の終わりに俺から提案したから。
そうでもしないと朝起きるモチベーションが保てないとか戸隠さんが言い出したからである。眠たさと酒の酔いで愚図る48歳はなかなかに可愛かった。
『どこの車両に乗ってますか?』
スマートフォンからメッセージを送る。
すぐに既読がついて、前から4両目、という答えが返ってきた。
俺は6両目と答えて、人も疎らな早朝の電車の中を運転席の方へ歩いて行く。
丁度5両目で戸隠さんと落ち合うことができた。
「おはよ」
「おはようございます」
お互いに自然と笑顔で顔が綻ぶ。
誰もいない車内で、敢えて座席に座ることもなく、開かない側の扉の前に立つ。
戸隠さんの髪には寝癖が跳ねていた。
「風呂、入りそびれましたね」
「バレた? 朝は弱くって」
「昨日のリモート飲み会、もう最後の方はずっと船を漕いでましたしね。あのまま寝たら風邪引くなって、画面挟んでヒヤヒヤしました」
「だからあの後いい子にしてちゃんと布団に入ったし、歯磨きも朝にちゃんとしてきたよ」
ふわあ、と戸隠さんが欠伸をする。眠たくて掠れた声がセクシーで、可愛い。俺は昨夜画面越しで散々我慢した欲求不満で、思わず軽く唇を奪ってしまう。
「ほんとだ。ミントの味がする」
「野々上君と朝ご飯食べるんだもん。マウスウォッシュもしっかりしてきたよね。ってことで、お風呂は許して。時間なかった。今日は資料室にカンヅメで仕事する」
そう言ってむにゃむにゃと目をこする戸隠さんの胸元に、俺はそっと額をつける。肉厚な柔らかさが気持ちよく、甘い濃密なボディパウダーのような匂いがした。
「今日、香水もつけ損ねたから、加齢臭しかしないんじゃない?」
「いい匂いですよ。俺は好き」
すぅ~っと大きく深呼吸して戸隠さんの匂いを吸う。昨晩、ずっと抱きしめたいと思っていた体に触れられて、今日は朝一から活力が漲ってきた。
cafeは駅から本社へ至るまでの道を少し入った通りにある。
「いらっしゃいませ~」
軽やかな鈴の音と共に温かみのある木枠のガラス戸を開けると、コーヒーと香ばしい焼けたパンの匂いに包まれる。入ってすぐのカウンターには出来立てのベーグルが並べられ、奥にテーブル席がいくつかあった。
俺はチャンクが入ったチョコレートベーグルと塩バターベーグル、そしてcafeオリジナルブレンドのホットコーヒーを頼む。
その隣でカウンターの中にいた女性バリスタから戸隠さんは声をかけられていた。
「おはようございます。いつものですか?」
「うん。お願い」
常連の風格が漂う。商品を持って会計へ進み、テーブルでゆっくりするタイプのシステムらしいが、戸隠さんはほぼ何も手にすることなくレジへ向かう。そこにはすでにチーズクリームとクランベリーのベーグルと白い木の葉のアートが描かれたカフェラテがトレーに用意されていた。
後ろからついていった俺は戸隠さんの顔を覗きこむ。
「どんだけ?」
「あ、引いてる? だって好きなんだもん」
会計を済ませ、テーブル席へ移動する。どうやらお気に入りの席も決まっているらしく、空いてますよと奥の小さなテーブルを案内された。
時計を見る。30分はゆっくりできる。ふと顔を上げてテーブルを挟んだ戸隠さんを見た。
すりガラスから差し込む柔らかな朝日を受けて、ゆったりと大き目の白いカップを口にする。長い睫毛の影が目元にかかって、色素の薄い髪をきらきらと光が通り抜ける。長い手足を組んでゆっくりとソファに腰かける姿がすごく絵になっていた。
それを眺めて少しビターなベーグルと香りの高いコーヒーを俺はいただく。これまでも付き合った相手によってはホテルのビュッフェとか評判の朝ごはんというのもあったが、今日のこの瞬間を過去一最高に贅沢だと感じた。
でもそれが真に俺のものじゃないと、戸隠さんの左薬指にはまったプラチナゴールドの指輪からの反射光が警告する。ちょっと焼ける。でもひどく心が乱れることはしない。既婚者を相手にすればこの程度のストレスは当たり前のことだ。自らに言い聞かせる。
そんな俺の視線に気が付いて、戸隠さんが俺に視線を向ける。
「どしたの?」
「イイな、って思って」
「あはは。朝から飛ばしてるね。昨日の画面越し、そんなにフラストレーション溜まったの?」
「いや、昨日の事もあるんですけど、ほんとにずっとそう思ってて。初めて見た時、ドストライクだったんですよ、戸隠さん」
「美弥……とは呼ばないんだ」
「ここは二人きりじゃないですからね」
ちらっと俺は店内を見回す。
だんだんと朝食を求めて人が増えてくる。カウンター内の店員は皆忙しくてこちらなど気にしている余裕はない。それでも知り合いがいないかどうかは必ずチェックする。特にここは本社に近いし、俺達は同じ会社の人間だ。だからこその誤魔化しがそうでない相手と違ってできることもあるけれども、いざバレた時の面倒はマッチングアプリなんかで知り合ったワンナイトなんかの比ではない。
だから本気の好きとか、愛しているとかも、関係が深くなればなるほど人前では不用意には言わないし求めない。常に冗談めかして、ホモソーシャルなじゃれ合いに見える範囲でしか人前では触れ合わない。
そういうのがもう身についてしまった俺を戸隠さんはきょとんとした顔で見る。
「野々上君、既婚者との付き合い方、慣れてる感じがするね」
「実際そうですよ。俺のストライクゾーンで未婚って割と少なくて」
「そう? 僕らの世代 だったら、割と独身者が多いと思うけど」
「戸隠さんぐらいだと俺の中では外角低め、まだまだ若い方ですよ」
「え、一体いくつの人と付き合ってたわけ?」
「戸隠さんの前は78歳でした。ちなみに過去一最高齢」
しれっと言った俺の顔を見る戸隠さんから一切の表情が消えた。前にキスした時もそうだったけど、この人想定外の事が起こった時、こういう豆鉄砲食らった鳩の顔をするのだ。普段が完全無敵な感じだから、すごくかわいい。
「それって……できるの?」
「できなくは、ない……ですよ。気持ちよくなるまでの時間はかかりますけど。それに入れて出すだけがセックスじゃないんで」
「深いな」
「二人で一緒に気持ちよくなれたら、どういう形でもそれがセックスでしょ」
「大人だ。僕、そういうの考えた事ない。気持ちいいことが好きなだけだったわ」
「経験させてあげましょうか?」
「う~ん……すごい興味はあるんだけどねえ」
戸隠さんは苦笑いをする。
これこれ。これがタチを落とすまずとっかかり。釣りで言うなら浮き輪が突かれてる感じ。どこで引くか、あわせのタイミングは獲物の性質をよく見極めないといけないのも釣りに似ている。
気持ちいいことに対して素直であればあるほど、誘惑はじわじわとそして覿面にきいてくる。だから焦らない。
「もう、そろそろかな」
俺は食べ終わって少ししてから時計を見る。戸隠さんが出社するには少々早いけれども、俺が営業所へ出社するには逆算して丁度いい時間になっていた。
「戸隠さんはもう少しいます?」
「ううん。店も混んできたし、出るよ」
二人で立ち上がって出入り口へ向かう。その途中、レジ前から声がかかった。
「美弥?」
見ればテイクアウトの紙袋を持った田代さんだ。彼は電子決済で会計をすませ、レシートは受け取らずに俺達と合流した。
「野々上君がなんで?」
「ここのベーグルを一度食べたいね、って話で盛り上がったので」
「一緒に朝食どうって誘ったの。田代は?」
「今朝になって急に招集だよ」
何故なのか、戸隠さんも俺もすぐに理解する。昨日の経理会議の波紋に違いなかった。
「昨日の会議は実に有意義だったよ」
田代さんに告げる戸隠さんの笑顔は目が笑っていなかった。鬼だ。『静かな鬼モード』だ。
しかし長年付き合ってきて免疫がついている田代さんはどこ吹く風。紙袋から枝豆の入ったベーグルを取り出して、歩きながら飄々とかぶりついた。
「時間の無駄って意味でだろ。老害の独演会は楽しかったか?」
「わかってたのかよ」
「わかってたから人事は参加しないように手をまわしたんだろ。あの人らがいなかったら俺だって参加してたわ」
「ずっる」
「その代償で、朝から時間外労働だ。お前んところ本部長から連絡きたのいつだと思う? 今朝の2時だぞ。年のせいで一回目が覚めたらこっちは眠れなくなるってのに」
「きっと本部長も眠れなかったんだろ。お仲間が欲しかったんじゃない?」
よく知った仲で軽口をたたき合う。羨ましいと思うけれども、戸隠さんは田代さんとのそういう関係を求めなかった。たぶん、このくらいの距離感が戸隠さんには心地よかったのだ。
「じゃ、失礼します」
本社へ続く道へ出たところで俺は駅の方へ向かうために二人に頭を下げる。二人は軽く挨拶を返して、本社へ向かっていく。その時、戸隠さんの左手に立っていた田代さんが、彼の左手をすっと取るのが視界の端に見えて俺は思わず足を止めた。
田代さんがじっと見ている戸隠さんの左手にはプラチナゴールドの指輪が輝いている。
「お前、それ……」
戸隠さんの表情は硬かった。俺の視線に気が付くと、明らかに気まずそうな顔で田代さんから離れ、それとなくコートのポケットに手を入れた。
「……ヨシトシさんの指輪だよな」
「ああ……うん、そう」
戸隠さんは小さく、とても早口にそう答えて、再度俺をちらっと見ると、軽く手を上げてさっさと本社へと歩いていく。
田代さんが慌てて追いかけていく姿に後ろ髪をひかれながら、俺は駅の方へ歩いて行った。
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