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6.秘密の戸隠さん⑥

 ヨシトシさん。 「……って、誰だ?」  それだけがずっと気になって、俺は朝から集中力を欠いていた。  らしくもなく見積書の金額の桁数を間違え、依頼書の案件名を間違え、電話をかける先も間違えた。 「大丈夫か、お前。今日はいつも以上に朝から変だぞ」  挙句、隣に座る同僚から心配される始末。 「ちょっと頭冷やしてくるわ」  俺はそう断って、10時のブレイクタイムに6階のトイレに向かった。  個室に入って、扉を閉める。隣の個室でくぐもった男のシコリ声が聞こえたが、そういう気持ちにはなれなかった。  スマートフォンを取って、メッセージアプリを立ち上げる。電車の中で互いの存在を確かめ合った記録だけがそこにある。あの時は今日一日が薔薇色になるような気がしていた。  あの指輪に生まれた謎のせいで朝から頭の中はそればかり。いっそのこと既婚者の証というほうが、まだ馴染みがあって理解が追い付く。 「あー……モヤモヤする!」  低く、唸るような声が出る。隣の動きが止まって、暫くすると誰かが出て行った。ちょっと申し訳ない。  一つ確かなことは、あの指輪が『ヨシトシ』なる人物のものだということだ。  田代さんはそれを『自分の知らないうちに結婚した証』とは見ていなかった。むしろその指輪の来歴について既知のような口ぶりだった。  『極めてプライベートなこと』。  戸隠さんの過去に関わるような何かの匂いがした。  そしてあれが結婚指輪でないのなら、もう一つはっきりすることがある。  戸隠さんは、既婚者ではない。  ということは娘も彼の娘ではない可能性がある。 ――――ま、いろいろあるじゃない?  戸隠さんが滑らかで長い左の薬指にするりとはめた指輪を思い出す。  既婚者でないなら、どうしてそういう態度をとったのか。  考えられる理由としてはナンパよけだ。あとは職場なんかでいちいち結婚しているのかどうなのかを下世話に探られることを防ぐためというのもある。ただの指輪だったらゲイの擬態としてはよくあることだから理解はできる。  問題はヨシトシなる持ち主がいる指輪だということ。  さらに言うと事情を知ってる田代さんがもったいぶって『極めてプライベートな事』とかで戸隠さんの過去を濁すから、謎が謎を呼んでいるんである。 『ヨシトシって、誰ですか?』  メッセージを入力して、バックスペースですぐに消す。消してから、田代さんが『叔父の妻を扶養している』と言っていたことを俺はふと思い出した。 「ヨシ……とし」  戸隠さんの名前は美弥(よしや)。  一族内で共通の漢字を名前に使うというのは、古い家ではまだ割と残っている風習だ。  祖父は田舎のぽつんと一軒家で、納屋に息子が使っていた750ccのバイクを保管しておけたというのだから、そこそこに大きな家なのかもしれない。  その息子たちがどんな仕事についていたかは知らないが、少なくとも戸隠さんが暁星などという名門校に入ったというのなら、それなりの格式や社会的な地位があったのかもしれない。現代では実家が太くないと一発逆転ではなかなかそういう『名門』にはなれないから、昔からの大きな家なのかもしれなかった。  だったら一族の男たちに共通の(よし)が使われていても、おかしくはない。 「叔父さん……かな?」  彼は15,6年前に亡くなっていると田代さんは言った。恩人だとも。  その遺品としての指輪を身に着けているというのなら、納得はできる。納得はできるが、なぜそれが薬指なのか。理解できない。右でもいいだろうに。 「あ……いかん。いかんよ」  俺は暴走する嫉妬心を自覚してブレーキをかける。  これまで付き合ってきた相手だって、既婚ばっかりだった。戸隠さんだって彼らと同じことをしているに過ぎない。彼だけに詰め寄るのは俺のセオリーじゃない。  らしくない。らしくないけど……彼に嘘をつかれているかもしれないことに泣きたくなってくる。   「……やべ」  俺はトイレに座ったまま、膝に肘をついて、拳に額を当てる。  本気で、戸隠さんにハマっていってるのだ。それも抜け出せなくなってきている。  それを認めざるを得なかった。

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