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7.戸隠さんの指輪について①

 自分を偽ることには慣れている。だから偽られることが嫌いだった。 「おまたせ」  駅の西口からコート姿の戸隠さんが手を振る。俺は少々冷えて痛くなった腰を椅子代わりの花壇の隅っこから上げた。 「遅れるかも、って連絡してたのに、待ってたの?」 「戸隠さんが電車に乗った時間に丁度駅に着いたんで」 「冷えちゃったんじゃない?」  手袋を取った左手が俺の頬に触れる。薬指の金属が頬に痛いほど冷たい。その手に俺も素手を重ねる。 「戸隠さんの手の方が冷たい気がしますけど」 「トシのせいだよ。行こうか」  先に歩き出した戸隠さんを、俺は追った。  今日あった出来事の報告のような他愛もない会話を続けながら、歩く。ほんの少し、離れて。 「どうしたの?」  戸隠さんが左手を差し伸べる。その手を俺は躊躇いながらとる。指先だけがひっかけるような曖昧な繋がり方で。  指輪が、気になる。  既婚者だから、いつかは終わりが来る。だから割り切った関係だと、深入りしないとポリシーとして決めていた。これまでの相手は年齢的にも社会的地位としてもそういう前提で付き合う相手だったから。  戸隠さんともそういう気持ちで付き合えると思っていた。なのにできない。できなくなってきている。  それでもあの指輪を見ることで、彼には戻る場所があるのだと自分に言い聞かせてきた。それが結婚の証だと思っていたから。  そうじゃなかった。  ならヨシトシさんは誰ですか。  どうして彼の指輪をしているのですか。  寝癖……毎朝の外食や気ままな食べ歩き……はじけたボタン……週末の一人ツーリング……金曜の夜遊び……。それらの事実と共に彼には戻る先などないのではないか、という一縷の誘惑が俺をなお欲張らせる。  でも昨日は散々メッセージを書いては消しを繰り返して、結局何も聞けずじまい。ジムでは基本話はしない。それでも更衣室やシャワーといった話ができるスペースに二人きりという状況もあった。にも関わらず、彼との楽しい時間が傷ついてしまうのが怖くて、俺は嫉妬で暗く淀んだ心の内を偽り続けた。 「話が、あるんじゃない?」  戸隠さんがそう切り出したのはLemonでかっちゃんがオーダーした食事を全部サーブし終わった後のこと。  テーブルの上で俺の右手に両手を重ねて、彼はじっと見つめた。 「そう、見えました?」 「っていうか、ジムの間中、ずっと僕の左手を見てたでしょ?」 「わかるものなんですね」 「そりゃあ恋人の事だもの」  さらっと言ってミネラルウォーターの入ったグラスを傾ける。 「そう、思ってくれてたんだ」 「だって、彼氏にしてくださいって言われて、あんな気持ちいいキスされちゃったらねえ」  ははは、と戸隠さんは軽く笑う。その軽やかさに助けられて、俺もグラスビールに手を伸ばした。 「その割には、俺、戸隠さんから好きだって聞いたことないんですけど」 「だって……」  戸隠さんは先ほどまでの軽やかさとは一転して言葉を濁す。重ねた手をそっと握りこみ、額に引き寄せて触れた。 「言ってしまったら、本気になってしまう気がして……怖く、て」  店内の照明にプラチナゴールドの指輪がきらりと鈍い光を放つ。 「僕は、もう、誰も好きになっちゃいけないから」 「その指輪……ヨシトシさんのせい?」 「田代が言ってたの、聞こえたんだ?」  悪戯を見つかった子供のような視線でちらっと俺を見る。  彼は俺の手を離すと、左指から指輪を抜き取ってテーブルの上にそっと置いた。  彫りこまれた30年前の日時が、経年のためにうっすらとだけ残っているのが見えた。たぶん結婚記念日と思われた。 「でもその話は食事の後でいいかな? せっかくの美味しい料理が、冷めちゃうし」  戸隠さんは綺麗な笑みを見せて、お箸を手に取った。

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