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7.戸隠さんの指輪について④

「美俊さんは、僕の…………最後の(ヒト)なんだよ」  ふふふ、と虚ろな目のまま口元だけで嬉しそうに戸隠さんは笑う。  その笑みは虚無を抱えるからこそ美しく、魅了された俺の胸の内がちりちりと焦げた。 「でも、亡くなったん……ですよね?」  それも15、6年ほど前に。  彼が最後の男だというのなら、それ以降、戸隠さんは誰ともセックスしていないことになる。 「誰から?」 「田代さんから。だから今は美俊さんの奥さんを扶養してるって」 「あいつそんなことも話したの?」 「俺が戸隠さんの事情を何も知らないから、マウントとりたかったんじゃないですかね。ぽろっと」 「何を考えてんだか。守秘義務違反だ」 「扶養しているのは義理のお母さん、だからですか?」 「違うよ。美俊さんの、遺言だから」  戸隠さんは指輪を手に取って、人差し指と親指の間でゆらゆらと弄んだ。  美俊さんが初めてステージ2の胃癌と診断されたのは、戸隠さんが22歳になった夏のこと。  そこで露呈したのは当時25歳の美俊さんの妻が、予想以上に頼りないお嬢様であったという事実だった。  夫の病気告知に動揺し、その当時妊娠していた子供も流産してしまった。もともと何不自由なく育ってきた生粋のお嬢様である。当然と言えば当然だった。  自分が死んだら、彼女は一人で生きていけないだろう。  美俊さんは家長としての責任と家族に対する愛情からそれを心配した。美俊さんが亡くなれば戸隠家の男子はのである。 「僕を員数から外せば……ではあるけどね」  戸隠さんは意地悪く口元をゆがめて言った。  その頃には祖父は亡くなり、大きな田舎の家は処分されていた。美俊は都内の一角に手頃な家を構え、そこで祖母と妻と暮らしていたのである。その当時、祖母はまだ矍鑠(かくしゃく)としていたけれども、いつまでも元気なわけではない。そんな中で男子がいなくなれば、戸隠家は立ちゆかないだろう、と美俊さんは見た。 「だから、僕に戸隠家へ戻ってくれるように頼みに来た」  当然、戸隠さんは断るつもりだった。  仲の悪い祖母と、美俊を自分から奪った妻の面倒を見る義理などどこにもないからだ。  けれどそこで戸隠さんのゲスい一面が顔をのぞかせた。 「僕は、代償に彼の体を要求したんだ」  心が手に入るとは思わない。  ならば体だけでも自分のものになればいいと、思っていた。 「あの人は、その要求を飲んだ」 「何年くらい、続いたんですか?」 「さあ。暇な学生の発散とは頻度が違うし、彼には治療のための、僕には過酷な労働のための時間が必要だった。週に1回、気まぐれにあればいいかぐらいの頻度だったと思う。人の目があるときは誰が見ても仲良くバイクをいじってるいい親子だったしね。それでも彼が亡くなる直前まで、気晴らしに他の人との関係も続けつつ、ずるずるとヤッてたかな」  癌は一度寛解して、そのときに美俊さんからは関係を終わらせたい旨の申し出があった。次世代を残す義務が戸隠家の当主にはあり、彼は妻との間にその義務を果たさなければならなかったから。  やがて妻のお腹に子が宿った。  美俊さんに癌の再発とリンパへの転移が見られたのは同じ頃だった。 「今度は、助からない。そう彼は言ったよ」  けれど事実を妻に伝えることはできない。前のようにショックで流産する恐れがあったからだ。 「愛しているなら、真実を共有すべきたった一人の伴侶になってほしいと、言われた」  戸隠さんは指先で弄んでいた指輪をするっと左の薬指にはめた。   「彼自らこの指に誓いの指輪をはめて、死出の旅路の供連れに僕を選んだんだ」  心を、魂を、存在を戸隠さんに与えてやると美俊さんは戸隠さんに誓った。  その代償に、美俊さんが亡くなった後の戸隠さんの人生を自分にくれ、と。 「身重の妻とこれから生まれてくる子供を守ってほしい。それが彼が残した最後の言葉だった」  それは遺言じゃない。  俺は口から出そうになって、ぐっと唇をかんだ。  指輪も、愛情も、願いも、すべて戸隠さんを縛るための呪いでしかない。  戸隠さんもわかっているはずなのに、敢えて守り続ける戒めに、左の薬指に美俊さんの愛の証(呪い)を身につけた。  誰も愛さないように、誰にも愛されないように。  最後に愛した男のために生まれてきた娘を自分の子供のように愛情を注ぎ、彼が守るはずだったものを代わりに守り続けた。  そして16年。  誰にも触れず、誰にも触れられず、誓いと役目だけを全うして今も生き続けている。  胸が、痛む。  戸隠さんに対してだけじゃなくて、俺の5年前も思い出したからだ。  5年前、俺が恋したその人は生き方の美しい人だった。  先に逝った妻の思い出に魂を預けて、抜け殻の身体だけ残された人生を生きていた。  いくつもの花の季節を、蝉の鳴き声を、葉の色づきを、冬の静けさを思い出だけと暮らした。最も大切な人の思い出とともに生きていければいいと心に決めていた。そのはずなのに、空虚な孤独を抱え続けることに身体が耐えきれなくなった。  寄り添ってくれる誰かを探していた。俺は偶然そんな彼の手を取ったに過ぎない。体を繋ぐことは結局一度もなく、寄り添いあって肌を合わせる、そんな夜だけをいくつも超えた。  まるで殉教者のような恋だ。  色あせることのない思い出の中の幻影を生きる支えに、残された人生を歩んでいる。  戸隠さんに初めて出会った時、外見や雰囲気がバッチリ好みだった。  でも今考えたら、亡きあの人が体の内に抱えていた虚無と同じものを、戸隠さんも抱えていたから、惹かれたのかもしれなかった。 「指輪……はずそうか?」  戸隠さんが優しく問いかける。  戸惑いと、後悔が滲んだ声色だ。俺の事を気遣う一方で、戸隠さんの本心が美俊さんの甘い呪縛から逃げることを許していないのだと、俺は感じた。  俺は彼の左手を両手で包んで、首を振った。 「ツーリングの時言ったでしょ? それも含めて戸隠さんですよ」 「でも……っ!」 「今はまだ外せないなら、無理に外さなくていいです。その時が来るまで、俺は待ちますんで。ただ今は、丸ごと愛したいから偽りじゃなく本当の事が知りたかっただけです。話してくれて、嬉しい。好きですよ、美弥さん」 「野々上君……」 「ミナト」 「え?」 「野々上、湊人。サンズイに奏でる人って書くの。俺の名前。言ってみて」 「湊人、くん?」 「そう。ミナト、だよ。好きだって言うのもまだ怖いなら、まず二人きりの時に名前で呼んでくれたらいいです」 「湊人……」 「そ。あなたの、湊人君、デス」  俺は戸隠さんの左手を口元に寄せて唇をつけ、上目遣いで彼の顔を見ながらゆっくりと指の甲に口づける。白い顔を赤く染めながら震える超かわいい48歳を堪能し、彼の心の中に生きる神様へ無言で悪態をついた。  ざまあみろ、こんなにかわいい姿は生きていないと触れられないんだぞ、と。

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