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8.戸隠さんとクリスマスイブ①
「なあ……戸隠さん、結婚したの?」
隣に座る同僚が、こそっと俺に耳打ちする。俺たちの視線の先には戸隠さんがあいてるデスクを使って今月の帳簿確認をしていた。彼の隣には当営業所の経理担当がいるが、気の毒なほど顔が蒼白だった。
「なんで?」
俺は敢えて視線を目の前のPCディスプレイに向けたままぼそっと応える。
「左手薬指、指輪付けてんじゃん。前までなかっただろ?」
「そうだっけ?」
そういえばそうだった。俺が指に指輪のあとを見つけて以降つけてくるようになったのだ。月に一回しかこないし、くると大体はみんな視線をそらしてしまうので誰もそこまで気づいていなかった。
どうしてつけてきてなかったんだろう。俺も深く考えたことがなかった。
「はいこれ。コピーもらえますか?」
これまで事務所内では聞いたこともないような柔らかい声で、指輪のはまった左手が経理担当に書類を渡す。そんな優しい対応なんてされたことがなかったせいか、経理担当者は青い顔から表情を全く失って慌ててコピー機へ向かっていった。
「なんか……雰囲気変わったよな。穏やかになった? 余裕があるっていうか、うん、お前が言う通りちょっとカッコイイ感じもしてきた。やっぱり結婚したのかな。気になるけど、聞くのはコンプラ違反だしなあ」
「さあ。またこっそり飯食ったときにでも聞いとくよ」
チラリと時計を見る。15時のブレイクタイムを迎えようとしていた。
「ちょっと早いけど、休憩。トイレ、行ってくるわ」
「いてら」
デスクチェアから腰を上げて俺は事務所を出る。
その階にあるトイレの前を通り過ぎ、エレベーターホールへ向かう。先に上から下へ降りていったので、しばらくその場所で待った。
再び一階からエレベーターが上がってくる。チィンと小さな到着音を響かせてドアが開く。誰も乗っていなかった。
するっと入って5階のボタンを押す。ドアがゆっくり閉まり始め、すっかり閉じてしまう直前で、細く長い指が隙間に入り込んだ。
「待って」
コートを腕にかけた戸隠さんが少し息を切らして入ってくる。何階に行くのかなど聞く必要はなかった。
一つ一つエレベータの数字が加算されていくのを二人して黙って見上げる。どの階で誰が乗ってくるかわからないからうかつなことはできない。できないが少なくとも俺は触れたくて仕方なかった。
5階でチィンと小さな到着音を響かせてドアが開く。乗ってくる人とすれ違い、俺たちはエレベーターを降りる。さらに上階へ向かう階段はすぐ近くにあった。
「上、行きます?」
俺は滾る気持ちを抱えながら、それを表に出すまいとポーカーフェイスを装って戸隠さんに尋ねた。
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