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8.戸隠さんとクリスマスイブ③
「お先に失礼しまーす」
週の中日 だというのに今日は定時になると次々と人の姿が事務所から消える。気がつけば所長すらさっさとかえって事務所に残るのは俺と隣の同僚だけである。同僚は必死の様相でディスプレイに向かい、キーボードと戦っていた。
「なんか……手伝えるか?」
「え? なに? お前もう終わり?」
「うん。帰ろうかと思ってたんだけど、なんか、どつぼにはまってそうだからさ」
「どつぼって言うか、今日彼女と約束しててさ。このままだと……間に合わない……」
「ああ……」
クリスマスあるあるだ。
特に同僚のように後回し癖があると、いざというときにそれらがわっと襲いかかってくる。そこへきて電子機材というのは焦れば焦るほど不具合を訴えてくる。
自業自得言えば自業自得なのだが、トラブルの始まりが自分の癖から始まっているという認識はないから同じ間違いを何度も繰り返すのである。
「その案件、お前じゃなきゃダメなの?」
「え? もしかして?」
「変わってやるよ。俺、別に帰って寝るだけだし」
「今年も?」
「うっせ。どうするの? 代わってほしい? それとも俺帰ってもいい?」
「……代わって……」
「なんかで返せよ」
俺は同僚のパソコンをのぞき込み、現在の作業の進捗と最終的な出来型を確認する。量こそ確かに多かったが落ち着いてやれば今日中には終わる内容ではあった。
「じゃ、これ。とりあえず前払いな」
一階ホール前の自販から買ってきたホットコーヒーを机において、同僚は慌てて事務所を出て行く。彼の足音が廊下を去って行って、あたりには空調とLED照明のコイル鳴きの音だけが残った。
「さて……」
俺はシャツの長袖をまくってネクタイを緩め、自分のPCは電源を落として、同僚のPCに向かう。
――――世の中がクリスマスでいつも浮かれてるときは、大体午前様ですよ、本社経理ってのはね。お疲れ様。
もし戸隠さんがそんなことを言わなかったら、俺は今ここにいなかった。そうしてきっと送ったメッセージが忙しくて返ってこない寂しさを、クリスマスで浮かれた社会の空気の中で人一倍傷つきながら味わっていただろう。
『進捗いかがですか?』
メッセージを送る。
仕事をしているという同じ状況だというだけで何か繋がっている気がして、返事は期待していなかった。
『どうして僕だけが一人なんでしょう?』
小さな音を立てて、半泣きのウサギのスタンプと一緒に戸隠さんから数分後に来る。
『他の人は?』
『帰った。そういえば今日は本社の忘年会だった。僕断ってたから忘れてた』
『ビデオ通話しても?』
『いいよ。誰もいないし』
俺はPCのキーボードのファンクションキーを利用してスマートフォンを立てるとすぐにビデオ通話のボタンを押す。
しばらくして少しあおり気味の角度の戸隠さんが映った。たぶん俺と同じくファンクションキーを利用してたてているものと思われた。
「お疲れ様です」
「おつかれ~って、あれ? 湊人君、そこ事務所?」
ちらっとディスプレイから視線をうつした戸隠さんが尋ねる。戸隠さんに気を遣わせたくなかったので、俺もディスプレイを見て作業をしながら答えた。
「そうで~す」
「珍しいね。割と段取り良いって思ってたんだけど」
「彼女とのクリスマスデートに間に合いそうにない同僚の仕事を引き受けたんですよ」
「どうしてそんなことを?」
「美弥さんが今日は午前様っていってたでしょ。だから」
「僕に付き合ったの?」
「どうせ帰ったって一人の時間を持て余すだけなんです。それよりも好きな人と離れてても同じ時間を共有してるって感じる方が満たされるでしょ?」
はは、と笑って俺は缶コーヒーを口にする。
ちらっと画面を見ると、戸隠さんが目元を赤くして口元を押さえていた。
「うわ、どうしよう……今、めちゃくちゃ……湊人君が、かわいい。ドキドキする。サンタさんありがとう」
「やる気出ました?」
「出た。めっちゃ出た。もう心が折れてたところだったのに」
「このままつないで仕事しましょうよ。社内Wi-Fiが使えるから、気兼ねなく作業通話できますよ。さすがに画面越しのイチャイチャは無理ですが」
「いいよ~。でも僕黙ったら静かにしてね。数字の確認してるところだから」
「了解。俺もぶつぶつなんか呟いてても無視してくださいね。レポートの校正してるだけなんで」
「りょうか~い」
こうして俺たちの色気のないクリスマスの夜は始まった。
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