36 / 54

9.ラブホテルで戸隠さんと③

「レジャーとしてのラブホテル利用って、ありかもしれない……」  乳白色の浴槽で、豊かな戸隠さんの胸筋を枕に俺は抱きしめられるような体勢で足を伸ばしていた。後ろから回された戸隠さんの指の長い手に手を重ねて、にぎにぎとリズミカルに圧を加える。 「……ヤリもくでしか考えたことなかったから、そういう着眼点は今までなかったけど」 「自宅だとこんな広い浴槽とか無理だしね。銭湯だと落ち着かないし、温泉というと、予算と時間のハードルが高い」 「でも温泉はいつか行きたいかも」 「バイクで?」 「車は酔うんでしょ? ナビは俺がしますよ。タンデムでつれてってください」 「その場合さすがに今はオンシーズンだから、もう少し先、雪のシーズンが終わってからかなあ。温泉が近くにあるキャンプ場とかならいけるかもね」 「キャンプか。いいですね。興味はあったんですが、どうにも出不精で。そういや年末年始っていつもどうしてるんですか? ツーリングで初日の出見に行ったりとか?」 「してたときもあったけど、今は行かないなぁ。インバウンドで近隣の名所は人だらけだし、観光客のマナー悪いから事故りそうじゃない」 「それはある」 「湊人君は? 実家に帰ったりとか」 「しないですね」  俺はきっぱり言った。  うちはよくある母子家庭というやつだ。父親については聞いたことがない。俺の知る限り物心ついたときにはすでに母親の仕事というのが水商売で、いつも知らない男が出入りしていた。  戸籍とかも確認したことはない。結婚するとなったら調べるのかもしれないが、ゲイなのでたぶんこの先もない。戸隠さんの言葉を借りるなら、入籍してようがしてなかろうが父親として俺の側にいなかったという事実はかわらないからだ。寂しいとも思わなかった。  母は俺が就職して微々たる仕送りの代わりに湿っぽい親子の情を切り離した頃から現役を退いた。今は近所の軽食屋で手伝い程度のバイトをしている。  外見が若くて俺から見ても綺麗だし、気の良い女なのでよくモテる。職場では必ず誰かに奢ってもらえたし、常に新しい彼氏がいた。 「住んでるのは持ち家じゃなくて賃貸の公営住宅だし、そのくせ年末年始とかは彼氏のおごりでどっか出かけたりでいなくって、帰るって感じでもないんですよ。学生の頃から似たような境遇の友達の家にだいたいは入り浸ってましたよね」 「元気にはしてるの?」 「今のところ警察からも、今の彼氏からも訃報が来てないんで、たぶん生きてるんだと思いますよ」  その彼氏も母親が50歳くらいまではとっかえひっかえだったが、俺が30を過ぎた時に出来た気の弱そうな5歳年上の男寡婦を最後に今は落ち着いている。賃貸の2LDKは今やその男との愛の巣になっており、俺の私物が2年前にまとめて送ってこられて以降、もうそこに俺のいる場所はなかった。 「あ、そんな感じなの?」 「そうなんですよ。だから毎年家でダラダラして、たまに知り合いと会ってぐだぐだ酒飲んだりとかで終わりですね」  その知り合いというのも年齢的に皆身を固め始めていて、年々集まりの頻度は減っているし、会っても家庭の悲喜こもごもをツマミに聞くことになる。  俺はと言えばゲイであるとはカミングアウトしていないし、彼氏は軒並み平均年齢60歳だしで話せることは何もない。 「ここ3年くらいはLemonの新年会に必ず顔を出すくらいかな」 「いいな、新年会。楽しそう。っていうか、おいしそう」 「旨いっすよ。今年もやるのかな。かっちゃんが海外に遊びに行かないならあるかも。今週の金曜日、聞いてみます? 忘年会はいつも29日の仕事納めの日にやってるって」 「初詣は?」 「友達に誘われたら行きますけど、自分だけでは行かないですね。戸隠さんは?」 「行くかな」 「行くんだ」 「近所のお社にね。初日の出のついでにバイクで遠出することもあったけど、やっぱり人が多いから最近はないね。行くとしたら少し時期をずらすかな。今年一緒に行く?」 「家族は? 娘さんとか」 「例年なら一緒に行ってたけど、今年は30日から友達のところに泊まって、大晦日にオールでカウントダウンライブ行って、その後カラオケして、そのまま初日の出見て初詣だって」 「わっかいなあ」 「その足で自宅じゃなくてアヤさんの実家に行くから今年の僕はお役御免」 「アヤさん?」 「美俊さんの奥さん。箱入りのお嬢さんだからね。年末年始は結構長いこと実家で過ごす人なの。美俊さんが生きてるときは僕もついて行ったりしてたけど、亡くなってからは彼女を実家に見送って、家の掃除したら仕事納めでほぼ終了。後は4日に彼女たちを迎えに行くまでゆっくりしたり、バイク整備したり、気ままに出かけたりかな」  戸隠さんへの口ぶりには極力家から離れようとする意図が感じられた。  どうやらこのアヤさんの実家というのが戸隠さんを個人的に現状へ引き留めておくようにここ最近助言しているらしいとのことだった。  その方法の一つが泣き落としというか色仕掛けというか、とにかく「あなたを愛しているのよ」という方向性だったので、戸隠さんはほとほと疲れてしまっていたのである。 「ゲイだって、カミングアウトしてないからなんだけど……」 「……したって理解できないでしょう。そんな世間知らずだったら」  働いたことのないお嬢様で、年齢は50歳を超える。  現状戸隠家で収入と言えるものは戸隠さんの給与と、彼が管理人となっている美俊さんから引き継いだ戸隠家の株式運用益である。  戸隠さんがいなくなれば給与分の収入が減る。しかしこれから何か仕事となってもアヤさんには職歴がない。また財政観念が低いため、美俊さんから引き継いだ財産の管理も到底できない。  何より戸隠さんのお父さんが祖父から引き継ぎ、結果的に戸隠さんが相続することになった財産が戸隠家から失われるとアヤさんの実家は思っていて、戸隠さんの独立に難色を示していた。 「美弥さんのものであって、その人達のものじゃないのに」 「どうでもいいけどね。僕の相続分って言ってもずっと御祖母様が管理してて、彼女が亡くなってから引き継いだけど手に余るというか、想定外でね。美俊さんの資産の一部と一緒に全額投資に回したから、年に何回かの運用益の金額を教えてもらう以外、元本が今どうなってるか知らないし」 「剛毅だ」 「だって本来は気楽な独身貴族だもの。アヤさんには美俊さんからの遺産がある。実家からのバックアップもあったし、実質僕の給与なんて入れなくても家族3人が暮らしていくには十分なんだよ」  そんな母に対して、幸い娘さんの方は彼女を反面教師に、父親代わりの戸隠さんから会計の仕組みや財テクについて学び、逞しく独立しそうなのだという。 「それがまた彼女を不安にさせてるみたい。でも娘はうっすら僕とアヤさんの関係のおかしさに気がついてたし、その上で彼女も僕を戸隠家に引き留めようと出て行くなんて言い出してるところもあって……」  戸隠さんはふうっとため息をついて、俺を背後からぎゅっと抱きしめた。俺はそんな彼の濡れて癖がついた髪を軽く撫でて、項に埋めた顔にちゅっとキスを与える。  美俊さん亡き後、残される女子供を守るためとはいえ彼の呪いは戸隠さんの中にだけじゃなく、現実にも思いのほか深く根を張っていた。そりゃあ一朝一夕に指輪だけを外して一抜けた、とは言えないはずだ。  軽やかに生きてるフリー感は背負ったものの反動だったんだな。  俺は戸隠さんに抱いていた当初のイメージの変更をしなくてはならなかった。  彼の背中にのしかかるものは彼にしかどうにもならないものだ。でもそのための活力を与えてあげたい。そう思う。  俺は先に立ちあがると戸隠さんに手を伸ばした。 「もうそろそろ上がりましょうか。このままだと湯あたりしそうだ。冷蔵庫に冷えた水がありますよ」  見上げた戸隠さんが俺の手を取る。握り返した俺の手に強く引かれて、ざばりと湯船から立ちあがった。

ともだちにシェアしよう!