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9.ラブホテルで戸隠さんと④

 白いバスローブに身を包み、戸隠さんがベッドにぽたりとダイブする。 「あ゛~……気持ちいぃ」  少し湯あたりしたのか掠れた声が色っぽい。  俺はベッドの枕元の棚に冷えたミネラルウォーターのペットボトルを置いてベッドサイドに座る。壁一面に貼られた鏡に同じバスローブ姿の俺と戸隠さんが映っていた。 「こんなにお風呂でゆっくりしたの、ひさしぶりかも」 「俺も。単身用の住まいで、風呂に湯なんて溜めませんからね。美弥さん、おうちでは?」 「最近はね、湯船でゆっくりしてるとアヤさんが入ってこようとするから、朝にシャワーでささっと流すくらい」  ところが戸隠さんは本来朝に弱いらしい。だからたまに入りそびれる。寝癖の理由が理解できた。  俺はペットボトルの中身で乾いた喉を潤す。 「既成事実を作るつもりですかね」 「実家にそう言われてんじゃない? 僕、勃たないのにねえ」  戸隠さんはははは、とやけっぱちに笑うと、うつ伏せのまま流し目で俺を見た。 「見たでしょ?」 「ええ、まあ」  俗説ではあるが年齢とそれに応じた勃起の角度は手を目一杯広げて中指を水平に保った状態のそれぞれの指の角度が目安だという。  親指の10代、人差し指の20代、中指の30代、薬指の40代、小指の50代……。  俺は毎日のマスターベーションのおかげ様で、未だに10代ないし20代の硬度を維持できている。  一方の戸隠さんは俺がこれまでの彼氏でよく見た項垂れ方をしていた。 「年齢的には珍しいことじゃないでしょう。それに勃たないって言っても、イかないわけじゃない」 「そうだね~。でもひっさしぶりだったんじゃないかな、あんなに気持ちよく出したの」 「16年ぶり?」 「かも。時々夢精みたいに漏れることはあったんだけどね」 「自分でしたりとかは?」 「あんまり。年齢的な事だって前に湊人君に言い訳したけど、実際は美俊さんが亡くなって、いろいろと始末をつけ終わったら、もうすっかりストレスでED。リーマンショックだなんだで日本経済も底冷え通り越して氷河期で、そんな中で会計扱ってると業務的にも上から圧迫が強かったりして、軽い鬱で薬をもらってた時期もある」  だからもともと酒に弱かったところが、致命的なまでに受け付けなくなってしまったのだという。なるほど、ワインでいい感じに酔っぱらってしまうはずだ。  バイクでの一人ツーリングやキャンプも食べ歩きも、性的な欲求の灰汁が抜けきった結果の代償行為であり、鬱病の改善として仕事と家庭以外に自分の好きだと思えることをしなさいという医師の助言によるものだった。 「ネコになって、あげよっか?」  視線のありようはそのままで、戸隠さんは猫が飼い主に見せるような身の捩り方をして、舌足らずな高めの甘えた声で言った。  俺はその様子が可愛くて、彼の白い喉元に指先で触れ、猫を撫でる様にくすぐる。  体が緊張などで強張っているとくすぐったくなるものだが、今は十分にほぐれているのか戸隠さんは心地よさそうに目を閉じて指先の感覚を受けていた。 「それは俺に抱かれたいから? なら喜んで」  俺は柔らかい口調と軽い笑いで答えて立ち上がる。ベッドの上で横たわる戸隠さんは虚ろだった。  返しが少し意地悪だったかな、と俺は反省する。でもタチからネコになった人達と付き合った経験上、勃たないことを理由にした受け身は抱く側が細心の注意を払わないと心の予後が悪い。  棚に置かれたドライヤーをハンドタオルと共に取ってきてサイドテーブルのコンセントにセットする。横になったままの戸隠さんの頭をタオルドライし始めた。 「ん……湊人君の指、気持ちいい。眠っちゃいそう」 「寝てもいいですよ」 「えー……せっかく恋人とホテルに来たのにぃ?」 「さっき二人で気持ちよくなったじゃないですか。俺はそれだけでもすごく満足。ここ6年で最高のクリスマスですよ」 「……そういや、5年くらい彼氏、いないんだっけ? セックスは?」 「してないですね。トータルだと8年くらい」 「8年?!」 「一人遊びのアイテムはディスカウントストア(DS)とかネットで手に入りますし、ただ出したいだけならそっちの方がお手軽」 「寂しかったりしないの?」 「年齢的に仕事が忙しくなってきたから割と気がまぎれるし、何より俺のストライクゾーンって、まあでは終われないんですよね。だから後始末のこと考えたら、人付き合いとかがめんどくさくなっちゃって」  俺は彼の手を取って起こすと、ベッドサイドに座らせてミネラルウォーターのペットボトルを渡した。それをあけて口に含む間に背後に回り、ドライヤーをかけ始める。戸隠さんは素直に髪が乱されるままになっていた。  ドライヤーが終わると、俺は私物のハンドクリームを取ってくる。それをたっぷりと掌に落とし、体の熱で少し溶かしてから、掌に広げる。ペットボトルを置いた戸隠さんの手を取って、指の一つ一つ、爪先の先まで丁寧に塗り込んでいくと甘くていい匂いがあたりに広がった。 「あ、このシリーズ僕も好き。テクスチャアがべたべたしすぎないんだよね」 「美弥さん、指先綺麗に手入れしてますよね。何か理由が?」 「クリームが欠かせないのは歳のせいで指先が乾くから。資料がめくれなくて。でもサックは圧迫感があってあんまり好きじゃなくて」 「わかります。俺も割と静電気体質のせいか指先の皮がめくれやすくて。今度、おそろいのハンドクリーム買いません? 同じ匂いを身に着けてるって思うと、離れてても仕事中でも気分上がるじゃないですか」  何気ない俺の提案に戸隠さんはちょっと唇を噛んで、赤い顔で上目遣いに俺を見る。そのままゆらっと上半身が倒れてきて、額が俺の肩にそっと当たった。 「湊人君さあ、これまでの彼氏に対してもそんな感じだった?」 「そんな感じ、とは?」 「優しすぎるでしょ。絶対否定しないし」 「焼きもち妬いてます?」 「う゛ー……」  肩口にぐりぐりと戸隠さんが額を擦り付ける。ネコというよりはサイズ的には甘えた虎だ。俺はそのままベッドへ押し倒されてしまった。  可愛い。  胸元に縋り付くようにして乗っかった戸隠さんの猫っ毛を指で梳いてあげる。 「付き合ってきた相手の年齢層のせいですよ。こういう受け答えに慣れちゃって」 「78歳」 「まあ、そこまでいったのはほんとに5年前の彼が最初で最後ですけど、みんなだいたい45以上なんですよね、昔っから」  その年齢層はもはや自分の在り方を色恋のために変更などできない。  逆に言えば嗜好がはっきりしている。そして社会的に安定した人だと、まず相手を喜ばせようともしてくる。それに合わせてあげればいいのでとにかく希望を聞いて否定しないことが重要だ。  それさえできれば、察してくださいという割には移ろいやすい真っちょろい若者と付き合うよりは悩まなくてもいい。 「昔っから年上好きなの?」 「ってわけじゃなかったけど、金持ってるのって年配者じゃないですか、今のご時世って。俺、母子家庭で間違いなく裕福じゃなくて、大学の学費稼ぐために時給のいい夜のバイトをやってたんですよ。そこがゲイバーでね。くたびれたおじさんから「いくら?」って聞かれて、それがウリ専の始まり。その人ネコ転でね」  ゲイの場合、若い頃はバリタチでならしたけれども、年齢と共に勃たなくなって、ネコに転向する人はいる。ただでさえゲイ界隈にタチは少ないので、もともとの狩り場を圧迫する転向ネコは真性ネコからは嫌われる。だからまだ界隈に知られていない野良の若いタチの需要は高かった。 「その頃は自分がゲイかどうかとかは全然考えたこともなかったんですよ」  淡い初恋は男だったけれども女の子相手にも体売っていた。入れて腰振って、もちろんゴム付きではあるけれども最奥で出すだけでいいなら、相手が男でも女でも雄の役目はかわらない。 「でも若いやつだと金は無いわ、執着きついわ、要求多いわ、約束破るわでこっちの負担するお金以外のコストが大きすぎて、うんざりしたんですよね。だからフケ専完タチに」  そしてやがてはオケ専も。  ゲイ界隈では40歳前後くらいから相手がいなくなる。タチをするには持ちが悪く、だからといってネコに転向しても市場は飽和して、肉体も感性も瑞々しい若い子に溢れている。その上、年齢的にカモフラージュで家庭などの社会的な柵を持つことが多いので、そのあたりのトラブル回避から忌避される。  だから俺は逆に狙った。  金を介在にしたビジネスライクなら、愛だの恋だのは基本考えなくていい。むしろいつか戻る場所がありながら、誰にも言えない欲望の熱にうなされている転向ネコのおじさんは後腐れがない。社会人としてはきちんとした人が多かったから、コミュニケーションの無駄なコストも支払わずにすむ。  今の営業でも役立っている気軽さが受けて、そこそこに稼ぐことができた。人間関係の危機回避能力もこの頃に培ったものだ。所詮蛙の子は蛙、あの母にしてこの俺だったのだろう。 「以来ストライクゾーンはそのあたりばっかり。そういう人の欲望を、叶えてあげるのが好きで、世話焼きになっちゃうんですよね」  自分として生きる。生まれ直す。そのためのセックスをする。  俺以外に本当に大切にしたいものがあるからこそ、誰にもバレないようにこっそりと、自分を振り回すもう一人の自分の本性と必死に折り合いをつけようとする。そんなオジさん達の姿がだんだんかわいらしく思えてきてた。  気が付いたら俺は年上の疲れたオジさんにしか勃たなくなっていた。本気で彼らを好きになって、グズグズになるまで抱いて、愛して、与えて、啼かせてあげるのを幸せに感じた。 「でもそうやると、大体の人とは縁が切れちゃうんだなあ」  理由はわかっている。それはきっと愛でも何でもないから。  ただの癒やし。  心の空白が満たされると、人は独りで立ち、歩き出す。その道を見いだすことができる。向かう先は孤独ではなく、新たな仲間であり、やはり家族だった。  戸隠さんがきゅっと俺の胸元を握りしめる。 「湊人君も見送る側か」 「慣れちゃいましたけどね。たださすがに、死出の旅路を見送ったときは、オケ専は潮時だなあ、と思いました」  78歳の彼は大きな会社の会長さんだった。  最も愛した奥さんはとうに亡くなり、子供達は独立して、会社を任せている。自分は顧問という立ち位置で、心身ともに健康で金にも困っていない。ただ、知り合いがどんどんと先に逝き、一人取り残された寂しさに体が耐えきれなかった。 「最後を看とる。ただそれだけの契約だったんですよ。体の関係は一度もないです。せいぜいキスしたり、一緒にベッドで寄り添って寝るくらい」  誰かに覚えていてほしい。  自分が愛のためであらばこそ、生き続けたことを誰かに知っていてほしい。  その願いを満たす、ただ、それだけの関係……。 「でも、彼と過ごした3年間が一番満たされてた」  体を繋げるしか愛し方をしらなかった。そんな俺にそうじゃなくても愛を与えることや幸せを感じ合えることを教えてくれた人だった。  穏やかに流れていく残された時間をともに過ごした。  初めて、恋をした。  彼が魂を残した亡き奥さんをうらやましいと思った。  これほど愛し愛される存在に出会えた彼の人生に憧れた。  契約通り、彼の最後を看とった。  残された親族から散々責められたことも含め、もう誰も好きになれないだろう。そんな風に思った恋だった。 「湊人君?」  泣きそうになって目頭を腕で押さえた俺を、戸隠さんが顔を上げて見るとするっと俺の横に体をずらした。  ふわっと、甘いボディパウダーのような香りと肉厚の胸に俺の頭が抱かれる。  顔をあげると戸隠さんの聖母のような優しい眼差しがあった。その抱擁にぶわっと胸の中から何かがこみあげてくる。声が震えた。 「ご、ごめん……なんか、もう、忘れたと思ってたんだけど」 「いいよ。話してくれて、嬉しい」  よしよしとまだ水分を少し残した俺の髪を戸隠さんの手が撫でる。  たまらなくなって俺はぎゅっと戸隠さんの豊かな胸元にしばらく顔を埋めていた。

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