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10.朝と夜と戸隠さんと②
「シてあげたのに」
戸隠さんはゆったりと大き目の白いカップに口をつけてから、ペロッと舌を出す。
普通ならカフェラテの温度に舌を焼かれたように見える。
でも俺には営業所の例のトイレでずっぽりとナニを咥えた時の情景を引き起こすキーアクションだった。
俺は努めて冷静さを装い、手元のブレンドを口に運ぶ。今日のベーグルは抹茶とホワイトチョコのチャンクが入ったものと、紅茶とレモンピールだ。
「朝が弱いって聞いてたし、かわいい寝顔だったから起こしたくなかったんですよ」
「結局、起きちゃったけどね。セクシーなモーニングコールで。ばっちり」
ぐっと言葉に詰まる。
男なら朝の生理現象を一人遊びでたしなめるくらいは常識だ。ただ見られたい光景かどうかと言われると、少なくとも俺に公開オナニーを趣味にするような露出の気はない。昔友達が飼っていた雄犬がクッション相手に情けない顔で腰を振っていた光景に今朝の自分が重なって顔が赤らんだ。
「そんなに僕の事が好きなのに、どうして抱かないの? 砂浜で抱きたいって言ったし、ホテルでも、無理くりすればチャンスはいくらでもあったでしょ?」
「90キロのバーベルをヒョイヒョイあげたり、260キロのバイクを起こせるような人をですか?」
「でも野々上君くらい巧みなら、僕は骨抜きにされて、そのまま抱かれたかもしれないよ。ネコになってあげようか、って聞いたでしょ?」
神妙に値踏みする戸隠さんの視線が眼鏡の上から上目遣いで俺を見ている。
俺は返答を迷っている振りをしてそれとなく視線を逸らし、抹茶のベーグルをもそもそと口にした。
砂浜では本当に抱きたかった。それは間違いない。でも冷静になってすぐに手を出せないのは、戸隠さんがネコ転だからだ。
勃つとか勃たないとか関係なく、基本属性は抱く側 なのである。そして多くのネコ転の人たちは当事者になるまでは割とネコになることを軽く考えている。突っ込む側としての快楽を楽しんでいたように、突っ込まれる側も中で快楽を満喫しているんだろう、と。タチ の与えるセックスが気持ちよくないはずがないと過信しているのだ。
ここが大きく間違っている。
俺は男女ともにヤッてきたが、性別にかかわらず受け入れる側は言うほど簡単に気持ちよくなれない。喘いでいるのは気持ちよさからというのもあるが、どうしても快楽を捉えきれなくて苦しくて喘ぐしかないから、という場合もある。Mっ気があって苦しくされるそのことが心身ともに快楽へ繋がるようなタイプならそれで問題ないが、そうじゃないのに勘違いしていると自分がネコになった時にヒドい目に遭う。
受け身とはタチに快楽のタイミングも、それを与える刺激も任せるということだ。
基本自分の思うようにはできないし、しようと思ったらどうしてほしいかを言葉にする勇気とか語彙力とか、なにより快楽を拾う感覚コツの習得と反復による身体的訓練がいる。セックスを受け身で楽しめている人はそのあたりの熟練度が高いのであって、ただ寝っ転がってるわけではないのだ。
それを理解していないと後ろから犬のように責められたり、力づくで大股を開かされたり、自分勝手に腰を振られて抜き差しされたり、自分たち が今までやってきた痴態を強いられることによる羞恥と苦痛を真っ先に感じることになる。そこへきて過去の自分を投影したようなタチから「喘いでるんだから気持ちいいんだろ?」なんて言われたら、たぶん怒りも沸いてくる。
それでも人間の肉体には苦痛を和らげる機構があって、男なら強制的に前立腺 叩かれてイくことはできる。それだって自分の好きな時に相手が辞めてくれるかというと、難しいことも多い。そんなセックスの後は「あ゛~疲れた」と空虚に疲弊した心を抱えてホテルを出ることになる。
受ける側というのは常にセックスにおけるリスクも引き受ける側になる。同じムラムラ発散ならジムでダンベル上げている方が下手をすればまだましかもしれない。
しかしタチとしても役には勃たず、ネコとしてもいまいちキモチヨクもなれないなんて経験をしてしまうとだいたいのオジサンは鬱になる。鬱にならなきゃ気が狂う。出家でもして性欲から解脱できればいいのだが、若い頃をバリバリのタチでやっていた人だったりするとなかなか過去の快楽を捨てきれなかったりする。
男は繊細な生き物だ。
セックスで自信を失うと、他の側面でも自信を失ってしまうこともある。それは裏を返せば満足出来るセックスを経験すると、他の側面への自信に繋がることでもある。
戸隠さんが好きだ。抱きたい気持ちは日に日に強くなっていく。でも勃つとか、勃たないとかで関係性を決めたくはない。戸隠さんが抱かれてくれるというのなら、俺に抱かれたいと思ってほしいし、それで満足してもらえるように俺はその前段階としての繋がりをきちんと押さえておきたかった。
「戸隠さん、口元……」
クリームチーズの滓がついた口元に伸ばした指が触れる。そのままそっと顎を掴むように手を添えると、微かにぴくっと彼の身体が強張った。
慣れてないんだろうな。
昨晩、体に触れ合った時もひどく戸隠さんはくすぐったがった。タチの多くが触れられることに慣れていない。自分が触れて、入れて、出すという立場で前戯をすることはあっても、触れられることはあまりなかったりする。戸隠さんもたぶんそうなのだろう。
俺は軽くキスをして、ぺろり、とクリームチーズを嘗めとる。
軽いキスで反射的に体がこわばる。
伏し目気味な瞼から伸びる長い睫毛の震える様が美しい。
ほぐれない頑なさが切ない。
そして俺を見る真っ赤な鳩豆顔も。
「わー……」
小さく呟いてちょっとパニックになっているのも可愛いけど、この程度で動揺するなら俺が抱いたらたぶん戸隠さんは後悔する。優しくしてあげられる余裕があるかというと自信はない。その程度には、俺は戸隠さんを好きで抱きたくて仕方なくなっていたから。
「ネコになってくれるつもりがあるのは嬉しいんですけど、俺に愛される覚悟、できてます?」
口元に笑みは見せつつ、笑っていない真剣な眼差しで戸隠さんをまっすぐに見つめたまま、俺は迫る。
戸隠さんが時折みせる冷静な鬼モードを俺から見せつけられて、彼は言葉を失い動けなくなっていた。
俺はそんな戸隠さんから視線を外すことなく、その手を取り、指に口づける。唇が触れるたび、彼の身体がぴくっと小さく震える。
「まだ、俺を欲しがってない」
「……そんな、こと……」
「じゃあ足りない。もっと甘えて。もっと欲しがってよ」
甘めの声色で囁いて、俺は小さなテーブルに身体を乗り出すようにして戸隠さんとの距離を詰めた。
「俺と同じくらい我慢できなくなって。そうじゃないと、俺ばかりがあなたを好きすぎて、酷く傷つけてしまいそうで、怖いんだ」
「野々上……くん」
「俺なしじゃ体が疼いて眠れなくなるくらい欲しくなったら、そう言って。一晩中、乾く暇もないほど…………愛してたいよ」
最後の一言は身を乗り出して耳元へ囁く。
軽くイってしまった女の子のように、戸隠さんは真っ赤になって何度も体を小さく震わせた。
ニヤニヤしながら俺がゆっくり席に背中を預けると、恨みがまし気な目で戸隠さんが見てくる。
「……下着、汚しちゃうでしょぉ……」
「いいですね。その調子」
俺は皿に残ったベーグルの欠片をひょいっと口に入れて、可愛い48歳を愛でながら美味いコーヒーを堪能した。
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