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10.朝と夜と戸隠さんと③
「昨日はお疲れ」
朝一、デスクチェアに座ると、隣のデスクからコンビニのサンドイッチとホットコーヒーの差し入れがやってきた。見ればいい夜を過ごせたんだろうな、という色艶で顔色がすこぶる良い同僚がニヤニヤと笑っていた。
「良い夜だったようで」
「おかげさまで。予約してたディナーとホテルが無駄にならずにすんだ。サンキューな」
「そりゃ結構だ」
俺もニヤニヤ笑ってPCの電源をつける。それが立ちあがるまでに昨日からつけっぱなしのネクタイをほどいて、引き出しの中から予備のネクタイを取り出して結び直した。
今日は何件か得意先に年末の挨拶に行かなくてはならない。多少よれたシャツとスーツは仕方ない。衣類消臭剤はかけてるから匂いはしないはずだった。
「終電は間に合わなかったのか? 徹夜?」
「4時間くらいは寝たよ」
ふわっとわざとらしく欠伸をしてみせる。
しかし目ざとい同僚はにやにやと笑って言った。
「とか何とか言ってぇ。朝からいつもと違うシャンプーの匂いさせてんじゃん。白状しろよ。どこ行ったんだよ?」
「ラブホ」
「デリ?」
「巨乳の熟女。最高だったね」
さすがに女子社員の耳に入れていい内容でもないので顔を寄せて声を潜めニヤニヤと笑い合う。それでも職場には不似合いな内容と見とがめた先輩女性社員から咳払いの注意を受けた。
かする程度には嘘ではない。でもまさかその巨乳の熟女が本社経理の戸隠さんだなんてここにいる誰も思わないだろう。
――――あ、あ、あ、湊人君……だ、だめ……ぁ、出る、出ちゃう……!
――――イッて。湊人君で……僕を…………ん……ぁあ!
可愛らしい舌足らずな猫なで声で甘えて、高めの嬌声で喘いで、勃ちは悪いが快楽に緩い下半身でその証を思わずお漏らししてしまう。
そのかわいさ反則だろ、48歳。
デスクトップがたちあがる前の真っ暗な画面に昨晩の戸隠さんを思い出して体の中が熱くなる。にやけそうになる顔を眉間に片手の親指と人差し指で摘まんで俺は堪えた。
「あ゛~……だめだ」
「そんなによかったの?」
「うん」
赤くなる顔を隠しようがなくなって両手で覆う。
無我夢中で抱きしめて、もしかすると腰を強く抱きしめた時に彼のあの白い肌にキスマークつけたかもしれない記憶まで朧気に思い出して、もうなんか朝っぱらからたまらなくなった。
「なんか……最近、楽しそうだな、お前」
「え?」
ぼそっと呟いた同僚の言葉に顔を上げる。
ディスプレイはデスクトップを映し出し、自動的に立ちあがったメールソフトが送受信を始めていた。
「年末年始、いつもの集まりどうする? 招集かけるか?」
同僚が尋ねる。
俺は送受信を完了したメールソフトの画面に視線を向けた。
「招集かけるか、って幹事はいつも俺じゃねえか」
俺は唇を突き出して訴える。
この営業所では本社のように大掛かりな忘年会や新年会が、コロナを体の良い言い訳にして企業文化として廃れてしまった。
いつからだったかは覚えていないが、そのかわりに会社の気の合う同期数人でこじんまりと集まって、忘年会や新年会をやりはじめた。
集まり始めの頃は一晩中飲んで、騒いでしたこともあった。
だが数年の間に所帯を持ち、子供が生まれ、健康診断でポツポツ引っかかり……。面子も櫛歯が抜ける様に不参加が増えてきて、現在では不定の3,4人くらいで7時に集まって10時で解散というただの飲み会である。
「お前は?」
「ごっめーん。今年は俺パス。明日から年明けまで彼女と北海道に行くんだわ。スキーと温泉と観光楽しんでくる。お土産かってくるな」
「クマに食われてしまえ」
「あ、ひど」
「嘘だよ。幸せそうで羨ましいね」
「お前の方はどうよ。最近返しにキレが戻ってきたけど、失恋の傷はもうそろそろ癒えたか?」
俺はメールの返信のためにキーボードを叩いていた手を止めて同僚を見た。
「5年だ。俺らが見てなくても、もう大丈夫か?」
「それって、どう……」
どうやら年末年始の集まりとその幹事を俺に回したのは死ぬんじゃないかと周りが心配した結果だったらしい。うちの営業所は戸隠さん曰く、屋上からの自殺騒動があった前科があるので、社員のメンタルについて人事をはじめ、誰もがひどく過敏だったのだ。
5年前の喪失は自分では大丈夫だと思っていたけれども、そう思う以上に周りにはヒドい状態に見えていたのだった。
「でもお前、仕事にしてもなんにしてもなんか役目任せられたら絶対投げ出さないじゃん?」
「だから幹事だったの?」
「そう。幹事をやらせて、鬼が笑うような話をみんなで極力ふってたわけ」
「初耳だ」
「言えるような状態じゃなかったからな」
そう言ってディスプレイを見たまま同僚は笑った。
「お前よく笑うようになったよ」
「え……そうかな?」
「なんでもそつなくやっちゃうけど、つまんなそうだったもん。でもここ最近戸隠さんとジム行き始めてから、週末が楽しそうだし、絶対金曜日に残業するような仕事の組み方しなくなったよな」
どきっとする。
戸隠さんとの関係を会社の関係者が知るはずはない。
頭ではわかっているのだが、さっきの話から自分が思っているほど自分の内面というのは隠せていないのでは無いかという疑惑が生まれたので俺の内部で警戒音が鳴り響く。
そんな俺を同僚はちらっと横目で見たが、すぐに鼻で笑った。
「俺にはあの人とどうやったら仲良くなれるのがさっぱりわかんないけど、お前とは相性がいいんだろうよ。今年は俺も無理だし、他も年々厳しくなってんじゃん。新年会はしようぜ。初出の夜にさ。でも忘年会は俺らじゃなくて戸隠さん誘えよ。もしかしたら本社のコネ、ゲットで出世に繋がるかもしれないしさ」
「あ、ああ……」
出世のため。
どうやら俺があの気難しい本社のお目付役に近づいた理由を、同僚達はそう捉えているようだった。それならありがたい。
俺はははは、と笑って返した。
「あの人には家族がいるんだ。他の奴らがそうなら、年末年始はあの人だってそっち優先だろ」
「やっぱり結婚してたんだ」
「事実婚だってよ」
嘘だけど、半分は嘘じゃない。彼にはアヤさん……美俊さんの奥さんとその遺児がいた。
――――彼女を実家に見送って、家の掃除したら仕事納めでほぼ終了。後は4日に彼女たちを迎えに行くまでゆっくりしたり、バイク整備したり、気ままに出かけたりかな。
いつ、アヤさんを送っていくんだろう。
その後は少なくとも4日までフリーなのははっきりしている。一日だけでも、一緒に過ごせないだろうか。
昔、学生の頃にドーナツ化現象なるものを聞いたことを思い出す。都心というのは地方人の集まりだから、盆暮れ正月になるとみんなが実家に帰って都心の人口比率が比較的薄くなってしまうことらしい。
ということは、都内だったら年末年始はむしろホテルがとれたりするのだろうか。
そんな不埒な俺を嗜めるように打ち間違いを知らせるエラー音がPCから煩く鳴った。
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