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10.朝と夜と戸隠さんと④

 金曜日の夜。  俺達はいつものようにジムへ向かい、汗を流して、Lemonに入る。  指定席はカウンターの端の席。  俺が座るのはいつも右手。他の客に魅惑の隙間を見られるのが嫌だから。 「戸隠さん、ボタン、はじけてますよ」 「え、うそ?」  席に座る際に俺に指摘を受けて戸隠さんが慌てる。  はじけるはじけない以前にジャケットをまだ脱いでなくて、シャツが見えるわけないのに。 「うっそー」  ジャケットをさっさと脱いでにやにや笑う俺を、戸隠さんは叱るわけでなく、ちょっと拗ねたように眉尻を下げた。 「そうやって揶揄うから、ジャケットが脱げなくなるんでしょ~」  と言いつつ、ゆっくりと戸隠さんもジャケットを脱ぐ。  肉厚の胸元。  張りすぎていない広くしなやかな肩。  無駄も歪みもない背中。  引き締まった腰付き。  それらを隠す白いシャツが露わになる。  中には48歳とは思えない程、滑らかでシミや黒子一つない白い肢体が隠れている。それを思い出して思わず顔がにやける。 「なに?」 「いや……綺麗だな、って思って」  俺はまるで美の極致に至った絵画を見るような気持ちで頬杖をついて眺める。その口からは、ありきたりだがどストレートな賞賛が流れ出ていた。  人間は年をとってからが本当の勝負だ。  若い時は若さが美しさとイコールなので、多少頭が悪かろうが、いい加減な人生送ってようが顔つきに内面の歪みや辛苦が現れることはない。  しかし30を過ぎてくるとそれまで背負ってきた人生と抱え込んだ内面が顔に仕草にモロ出てくる。  いい加減に生きてくれば締まりのない顔やあり方になるし、人を貶めて悦に入れば品性は下劣になる。厳しい世界に生きれば強面になるし、優しさを失わなかった人は輝いている。  その点において戸隠さんは本当に美しい。  時々、経済氷河期を生き抜いてきた人間としての酷薄な無情さがどんなに笑顔で繕おうとも現れてしまうことはあるけれど、人生半世紀を迎えようというのにトータルとしては間違いなく人を魅了する雰囲気を持っている。  どこでも誰にでも分け隔てなく品がよく、艶があって、薔薇で作られた毒に似た危険な匂いがするけれども触れずにはいられない虚無を感じさせる。  それらを全体として現すなら『綺麗』の一言しかなかった。  奇をてらった心理的フィルターがないからこその言葉に、戸隠さんの銀縁眼鏡で防御した冷静さの仮面があっけなく砕け散る。白い頬を赤く染めて彼は目を瞬かせると、ジャケットをハイチェアの背もたれにかけて、そろそろと椅子に座った。 「困っちゃうな。そんな風にはっきり言葉にして言われたの、学生時代以来だから、どう反応していいかわからない」  戸隠さんは落ち着きなく両手を結んだり開いたりしている。たぶんからかい半分で言われて殴りつけていた当時の条件反射の残りが、彼の内側を騒めかせているのだろう。  その手を取って、そっと俺の両頬に添える。一瞬固くなった手から力が抜けて、少し体温の低い長い指が優しく頬を撫でた。 「店内が温かいから、戸隠さんの手が気持ちいいね」 「野々上君……」 「ちょっとぉ! いちゃついてんのもいいんだけど、なんか注文してくれるぅ?」  カウンターの内側から髭面の子熊ちゃん(かっちゃん)が困った顔で声をかけてくる。俺はビールを、戸隠さんはミネラルウォータを頼み、食事は金額を告げてかっちゃんが作りやすいものをお任せで頼んだ。 「お手洗いへ行ってくるね」  少しそわっとした様子で戸隠さんは椅子から立ち上がり、店の奥の手洗い場へと向かっていった。すらっとしたジムで整った長身。その背中とお尻が実に艶めかしい。 「ヤッたのね」  俺が見送る視線の先を追って、かっちゃんがビールと水、根菜のバーニャカウダを前菜として出してくる。俺は棒状のニンジンを手に取って、ニンニクとアンチョビの塩味がきいた温かいソースをつけて口へ運ぶ。 「残念。まだです。彼はタチなので。ところで今年の忘年会は?」 「例年通り29日。ただし終了時間は厳守。そのまま深夜便でハワイに行ってくるから。新年会は未定。って、あんたまた? 相変わらず好きモンねえ。どっちが尻を貸すわけ? あんた? まさかね」 「ん~……一応、エネマ買って、いろいろと手順は調べたんすけど、なかなかそれを試す時間というか、ケツをほぐしてる心身の余裕がなかったっすね」 「あらめずらしい。今までの相手なら絶対に譲らなかったでしょうに」 「キスがね、すごく上手いんですよ。腰砕けにされちゃって。抱かれてもいいと思えたんですよね、初めて」 「一つ大人になったわね。でもタチがネコになるのは一筋縄じゃないのは、あんたが一番よく知ってるとおもうけど、バニラに転向でもするの?」 「戸隠さんがネコちゃんになってくれるらしいですよ」 「あら~よかったわね。エネマが無駄になっちゃったけど」  軽く笑ってかっちゃんがカウンターへ戻り、次の料理にとりかかる。  二本目のキュウリを手にとったところで戸隠さんが手洗いから戻ってきた。途中、最近店で親しくなった常連に声をかけられる。  ちらっと戸隠さんは俺を見る。困っている顔じゃない。同行者に少々の自由の許可を得ようとする顔だ。 「くっそ、かわいいな。マジで」  可愛すぎて股間がイラつく。こういうのは本当に久しぶりだ。  自分のテリトリーに恋人が馴染んでいくのは嬉しいが、その一方で多少ジェラシーも感じてしまう。ただ後者を優先した結果、自由を奪ってしまいたくはない。  俺は聞き分けのいい彼氏の笑顔を作り、軽く手を上げて気にしなくてもいい旨を伝えた。  戸隠さんはホッとした様子で彼らの勧めた席に座る。  スーツがよく似合う長い手足を優雅に組んで、銀縁の眼鏡の奥のたれ目がふにゃっと柔らかく笑う。普段が割と冷たそうな美形なのに、話してみると業務外では人懐っこい性格で、声は媚びるように甘ったるくて舌足らず。普通にしてても肉感的で、口調は紳士で丁寧で、お金に困ってなさそうな独身年配男性ときているのに、そこへきてその可愛すぎるギャップに店の常連たちも幾人かが魅了されていた。  これでちんちんが勃つんだったら、そりゃあ入れ食いだろう。  違うテーブルで楽しそうにしている戸隠さんを見ながら鶏モモのウズラ卵包み焼きを盛りつけた皿をかっちゃんが運んでくる。戸隠さんの膝の上に添えられた左手の薬指も含めて、全体を眺めたかっちゃんはへの字に口を引き結んで少し沈んだ声で言った。 「ネコちゃんにしては、とんだ猛獣じゃない?」 「大丈夫ですよぉ。俺、優しいテイマーなので」 「知ってる」 「ただ、まあ、いつも通り一筋縄じゃいかないですよね。バリタチであの美貌。今まで自分で求めたことが一切ないっていう恋愛の王侯貴族様ですって」 「うわ、大変そ~」 「そこがまた、イイ。今は少しずつ手懐けてる最中。ひっかきはしないんだけど、怖がりネコちゃんだからさぁ」  俺はかっちゃんへにやにやと笑って見せてから、鶏ももにかぶりついた。 「あらあら。悪い顔ねぇ。でも、いい顔してるわ」  かっちゃんはそんな俺を見て、にやにやと見返す。俺は油だらけの鳥を手放すこともできずに、視線だけでかっちゃんを見た。 「同僚にも言われた。そんなに俺、酷い顔してた?」 「平気だって、自分で言い聞かせないと普通の顔ができない人を、健康とは言わないのよ。愛人契約のブッキングで一晩に3人を相手にしてもまだ勃てたほどのウリ専ボーイが、ここ数年は悟りを開いた坊主の粋に達してたわよ。目にハイライトがない」 「今は?」 「色欲の堕落へようこそおかえり。きらっきらした幸せ色の艶が溢れるように戻ってきたじゃな~い」  だからかっちゃんは俺と戸隠さんがヤッたものだと思ったらしい。  実はホテルに行って、一緒にお風呂に入って、回春ヘルス的なマッサージに終始しただけである。昔から俺の素行をよく知ってるかっちゃんからしてみたらたぶんものすごくプラトニックに思える夜に違いなかった。  その後もただ素肌で触れ合って、仔犬が身を寄せ合うように抱き合って、朝を迎えた。そんな一夜を過ごしただけ。  なのに客観的に見てもわかるほど、活力が戻ってきている。 『本当の恋って、そういうものなんだよ』  ふと、記憶の中で前の彼氏が言ったことを思い出す。  俺が本気で彼の事を好きになったことを聞いても動じる様子もなく、ありがとうと微笑んで受け入れてくれた。  彼はその強い想いの輝きがいろんな事情で永遠に続くものではないことを経験から知っていた。  けれど今その時の強い想いも玉響の幻想だと否定もしなかった。 『ああ、君がとても、愛しい』  そう言ってくれた時の彼の顔はどんな表情をしていただろうか。  思い出そうとするのに、それは胡乱で、死ぬ直前まで抱きしめていた肌の温度も、枯れた香りも、優しい声も、いつの間にかもう朧げになっていて、俺は少々愕然としてしまう。  あんなに愛していたはずなのに、と。 「どした?」 「あ、いや……そうだ。ラビオリ食べたいな。ある? あの肉パンパンにはいってるやつ」 「あるよ。ちょっと待ってな」  かっちゃんがまた厨房に戻って俺は油だらけの指をおしぼりで拭う。そこへ戸隠さんが席を立って戻ってきた。楽しい語らいだったのだろう。花が綻ぶような笑みが眩しかった。 「ごめんね、一人にしちゃって」 「いいですよ。俺のところにちゃんと戻ってきてくれるなら」  お詫びに、と俺は無言で口元を指でつんつんと突いた。  鳥油で輝く俺の唇に戸隠さんの唇が軽く触れる。俺は彼の項に手をかけて、心持ち力を込めた。  戸隠さんには俺の要求が伝わったらしく、キスがぐっと深くなる。  俺は片目だけ薄目をあけて彼越しに先ほど戸隠さんと話をしていた一団のテーブルを見る。彼らはカウンターの端で隠してるようで全く隠れていない俺たちのキスシーンになにやらきゃあきゃあと感想を話し合っていた。  離れるときは静かにゆっくりと逆の工程を辿ったが、最後の最後で名残惜し気に戸隠さんの舌先が俺の唇に触れていく。 「トリの美味しい味がする」 「もう一個ありますよ。まだ冷めてないからそのままガブっと手づかみでいきましょう」  俺は椅子を引いて戸隠さんを座らせ、旨そうな油の海に浮かぶ鳥が乗った皿を彼の前に差し出した。  戸隠さんががぶり、とかぶりつく。形のよい薄い唇も、手入れの行き届いた指先も油の輝きで艶めいて、生唾を飲むほどに婀娜っぽい。  きっと今キスしたら、美味しい鳥の味がするのだろう。 「この皿にご飯いれたら、絶対美味しいと思う」  そんな風に思っていたら、戸隠さんがものすごくいいアイデアのように言う。  直後、カウンターからかっちゃんがラビオリと半チャーハンの乗った皿を差し出してくるのだった。

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