42 / 54
10.朝と夜と戸隠さんと⑤
目の前を家路に向かう方面の各駅停車の列車が走りだしていく。次に来る列車が最終便だ。それを待つまでもないのに、もう2便も俺達は駅のホームで去って行く電車を見送っていた。
別れが、名残惜しい。
普段だって週末か、月一の戸隠さんの巡回でしか直接会っていない。どうしても姿が見たいときはビデオ通話だってある。明日から長期休暇になると言っても、状況は普段とあまり変わらない。
そのはずなのに、今、この時の別れがどうにも離れがたい。
小さい雪の混じった冷たい風が首元を薙いで、俺は少し首をすくめた。
「29日、どうします?」
「Lemonの忘年会の日? ジムっていつまでだっけ?」
「今日で今年は最後ですよ。その代わり新年4日から『おせち太り撃退キャンペーン』をやるとか」
「ああ、なんかそんなこと書いてあったねぇ」
「アヤさん達を実家に送るのは?」
「30日の午後かな。午前中は家の飾りつけとか、ゴミの処分をしなきゃ。うちの車はアヤさんが普段使いに乗ってるBMWしかないから、それに乗って行って実家に下ろして、その車で帰ってくる感じ」
「SUV?」
「カブリオレ。僕が車の閉鎖性を嫌うからってアヤさんの実家がオープンにしたみたいなんだけど、正直なところ冬は寒いし夏は暑いよね」
「だからって屋根をつけるとセダン並みに狭くなりますしね」
「冬はいいんだよ。バイクだって条件はあんまり変わらないし。でも夏はせっかく車なんだからクーラーは使いたいよね」
それでも戸隠さんに配慮したのは、彼に離れないように居てもらうためだ。しかしそこに本質的な『彼のため』の視点がないので、結局は『配慮しているように見えてアヤさんの好み』になってしまい、余計に心が離れていくというなんとも頓珍漢なことが発生していた。
戸隠さんはふうっとため息を吐く。白い呼気はすぐに風に流されていった。
「野々上君の年末年始は?」
「これといって何も。毎年だったら同期の数人で忘年会するんですけど、一番の中心格が今年は明日から彼女と北海道へ旅行だそうで」
だから29日はそれまでに軽く掃除して出たゴミを処分して、ちょっと外をぶらついたら早めにLemonへ入る予定だった。
もし29日中にアヤさん達が実家へ送り出されているなら、忘年会の帰りに戸隠さんをホテルにでも誘おうかと思っていたが、当てが外れた。
俺達の前に今日の最終便が入ってくる。他の酔っ払いや仕事帰りの人と同じように俺たちも重たい足取りで列車に乗り込む。俺はビールを飲んでいるが、まったく素面の戸隠さんは車内に充満するアルコールの匂いに端正な顔を少し不機嫌に顰めて、開かない出口付近に立った。
列車が走りだす。二駅先で今日が終わってしまう。
いつまでも停車場が見えてこなければよいのに。
俺は窓の外を流れる暗闇とぽつりぽつりと見える白い人家の明かりを眺めた。
「宅飲みなら、ゆっくりできたのにね」
そんな俺の気持ちを読んだように戸隠さんが俯いてぼそっと言う。彼の視線の先で、俺の靴先に彼の靴先が触れていた。
俺はちらっと視線だけをあげて戸隠さんの顔を伺う。
彼は俺よりも少し高いところから見つめ返す。その視線がかすかに潤んでいるように見えた。
触れたい。
でもそれを堂々とできるほど人の目を無視できる状況でもない。俺はそうっと自分の靴先を戸隠さんの靴先の上に軽く重ねる。酔ったフリをして、額を戸隠さんの肩に預けた。
「30日、うちに来ません?」
言ってから、急に心音が高くなったのを感じた。
人生初の類の誘いだ。それに気がついてしまったから。
戸隠さんに欲しがれと言ったくせに我慢が出来なかった自分に苦笑いしながら言う。
「車、停めるところある?」
「近くにシティホテルがありますよ。地下駐車場は金払えば預かってくれると思います」
「あ、じゃあ、買い物、行かない? いつもならアヤさんの実家の帰りに店に寄って、三箇日御籠りアイテムを買い込んで帰るんだけど、せっかく車だし」
「夜は?」
「映画、見に行こうよ、レイトショー。行こうって前に言ってたしさ」
「いいですね。タイトル調べときますね」
まるで仲のいい会社の同僚のような会話をぽつりぽつりと交わす。そんな何気ないことが別れを惜しむ俺の心の内をふっと軽くしてくれる。
「じゃ」
「うん、じゃ。29日に」
俺が下りたホームで、閉まるドアが戸隠さんとの距離を隔てる。
ゆっくりと電車が走り出してもドアの側に立って俺を見ている戸隠さんから目が離せない。
俺は電車の車体が夜闇の中へ消えてしまっても、赤いテールランプと車掌室の白い照明が緩やかなカーブの向こうに消えるまでいつものように見送る。
「週末に全力で片づけしときますね」
コートのポケットから取り出したスマートフォンのアプリでメッセージを送る。既読がついて、妙に気合の入った応援のスタンプが返ってきた。それを確認して俺は改札へ向かう。
生まれてこの方「自宅」というテリトリーに誰かを迎え入れたことはない。
実家にいたときはろくに掃除をする余裕もない母が男を連れ込んでいた。その気まずさから誰かとつるんで遊ぶときは必ずその誰かの家か、たまり場にしているファミレスやコンビニだった。
大学に入って一人で暮らしてもセックスはホテルでしかしたことはない。最後の彼氏との生活は彼が構えていた庭付きの豪邸だった。
俺は柄にもなく部屋の中の散らかり具合を思い出し、仕事の時と同じようにそれらを綺麗さっぱり片づけるための段取りを脳内で始める。
風呂やトイレ、キッチンの類いは使うたびに綺麗にするようにしている。普段から人を招待するなんて想定していない生活スペースは、ゴミを極力溜めないように心がけているので汚部屋とまで行かない。が、洗濯物がカーテンレールにかかっていたり、シーツや枕カバーは前に洗ったのがいつだったのかわからないなんて状況になっている。
なかなか骨が折れるな、というのが正直な感想だった。
そうやって大掃除に忙殺されているあいだに週末は終わってしまうのだろう。
俺の部屋に戸隠さんがやってくるその時のことを思って、俺の足取りはいつもよりも少し軽くなるのだった。
ともだちにシェアしよう!

