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11.戸隠さんとカウントダウン①
29日の夜。
雪が、降り始めていた。
「ではみなさま! 良いお年を!」
慌てた様子で帽子をかぶったかっちゃんが、残った常連客を店の外へ追い立てる。俺達はぱらぱらとではあるが降り出した粉雪を髪に積もらせながら、冷たい風に首をすくめた。
「これからハワイだってよ」
「飛行機出るのか? 雪降り始めてるぞ」
客たちが苦笑いでぼやく。それでも誰も本気で怒らないのは、旅行に行く相手がかっちゃんの新しい彼氏だからだ。店が繁昌するのは結構な事なのだが、その結果自分の事を二の次にしていた気の良い店長の幸せを、誰もが求めていた。
「二次会いかないか?」
顔見知りの常連に俺と戸隠さんは声をかけられた。忘年会の間中、俺たちと割と親しく話をしていた。気さくで、店のムードメーカー的なところがある年配男性だ。かっちゃんとは古い付き合いで、戸隠さんより4つほど年上だった。
戸隠さんは俺の顔を見て、どうするのかを問う。
その目が少々眠たそうだった。俺は彼の腰に回した腕でぐいっと体を引き寄せて、常連客の誘いを断った。
「戸隠さんがもう無理そうだから、帰るわ。じゃあ、また来年」
「おう、またな」
多くが彼の誘いに乗って二次会に向かい、俺たちは電車の駅へ向かう。千鳥足の戸隠さんを支えて歩きながら、俺は尋ねた。
「あ、ごめん。戸隠さんの意見を聞きませんでしたね。行きたかった?」
「ううん。楽しかったけど、野々上君に迷惑はかけられないし。断ってくれて良かった」
うふふふと戸隠さんは上機嫌に笑って俺に体重を預けてくる。ジムで鍛えているので支えるのはわけもない。まっすぐ歩かせるのが少々大変ではあるが。
「でもこんな楽しいお酒、ほんっと久しぶり~」
「外ではどうしてるんですか?」
「本社に異動してからは会社関係で飲みに行くことはないね」
戸隠さんはははは、と笑う。そう言えばホテルに泊まったあの夜も、忘年会を断っていたとも言っていた。
それでも入社当時は接待だなんだと連れまわされては飲まされたらしい。頭がよくて立ち振る舞いにそつがなく、顔つきは整っているのに少し舌足らずに高めの声はオッサンの支配欲を刺激して骨抜きにしてしまうほど心地よい。彼を部下として好きなように使っているなんて誇示したい上司もいただろう。
ただし気の張った時の酒は酔わない。ふわっとしてもどこかで理性が抵抗している。まるで毒の侵入を拒むかのように。
その毒は気を緩ませた時か、中毒症状を超える量を飲んで初めて悪酔いという形で身体を蝕む。戸隠さんも上司を見送った直後に茂みへ盛大に吐き戻したり、一晩中頭痛で苦しんだりという経験を何度もしていた。
そして産業医の紹介で通った精神科で鬱の薬が処方され、本社に異動になってから、すっかり飲み会そのものに行かなくなった。周りも鬱経験者が多くて薬とアルコールの組み合わせがもたらす不調をよく知っているから無理強いもしない。結果、経理監査という立場もあって田代さん以外でさほど個人的に付き合いのある人は居なくなったのだという。
「なにより会社の人間の前で酔っ払って、ゲイだなんてうっかり言ってしまわないかって、それが怖くてね」
田代さんとの関係もある。かなり気をつけてはいたが弱い酒で前後不覚に酔っ払ったあげく、翌朝に知らない会社の同僚や田代さんと間違いを犯して夜を明かすことにでもなることがなにより恐ろしかった。
「だから野々上君とLemonに来ると、やっと息が出来た感じがするんだ」
その気持ちが俺にはわかりづらい。
確かにゲイであるという事実は今でも人を忌避させる。でも昔よりは明らかに今は「個人のセクシャリティに対する寛容さ」がある。
特に俺くらいの年齢以下ともなると「誰も愛さないで自分だけのために生きる」という選択肢すら許容されている。そういう層からしてみれば、誰かと生きるというそのことがすでに忌避されることだから、その誰かが男だとか女だとかなどはさらさら興味がない。
一方で戸隠さんや二次会に誘ってくれた彼なんかはありとあらゆることに規範があって、そこからはみ出すことは死活問題だった世代だ。自分の好き嫌いで人間関係は選べなかった。選べない人間関係でハラスメントを受けても逃げることも出来ない。結果として明らかにしたくない性癖だとか、秘密を暴かれて、避難の的になるなんてことは日常茶飯事だった。かつてうちの営業所で自殺騒動を起こした社員もそういった風潮の被害に遭った一人だったという。
本当は、自分を偽りたくなかったんだろうに。
俺はかつて付き合ってきたオジサンたちを想う。彼らだって俺と同じような風潮の中にあれば、もっと自分に正直にいきていけた。それができなかったから、誰にも文句が言われない年齢、社会的地位、役割などになって初めて、弱さをさらけだすことができたのかもしれなかった。
今日は当時では口に出来なかったそのあたりの愚痴で同世代が大変盛り上がっていた。そこで俺は戸隠さんが酒を飲むと饒舌でかなり口が悪く、陽気になって大胆になるタイプなのだと知った。今の柔らかく紳士然とした外面では想像できなかった学生時代を垣間見た気がした。
なんとか駅まで歩いては来たけれども、ロータリーの花壇で戸隠さんは座り込んでしまった。
「吐きそう?」
「大丈夫。でもちょっと目が回って……る」
電車に乗れそうな状態には到底見えない。乗れたとしても別れた後の俺の脳内シュミレーションはどれも『おうちに帰れない』結果しか出してこなかった。
俺は自販で水を買って戸隠さんに飲むように勧め、ロータリー前にタクシーを見つける。俺が戻るにはたぶん時間的にまだ電車が使えるだろうが、とりあえず今はこれで戸隠さんを自宅まで送り届けなくてはならなかった。
「車は苦手でしょうけど、乗ってください。おうちの住所、教えてもらえますか?」
タクシーの後部座席に二人して乗り込み、運転手に住所を告げる。
車が静かに走り出す。
俺は後部座席でくったりと身を預けて肩にしなだれかかる戸隠さんをぐっと引き寄せた。
「野々上君……」
戸隠さんが吐息のように俺の名を呼ぶ。断続的な対向車のライトが俺を見上げるほんのり赤くなった顔を浮かび上がらせる。
庇護欲をかきたてる潤んだ目に引き寄せられて、ちゅっと軽く唇に唇を重ねる。フロントガラスに運転手の視線を感じたけれども、彼はわざとらしく角度を変えた。
「……戸隠さん……」
彼の手からペットボトルの水を奪って中身を少しだけ口に含む。喉元にそっと手を添えてもう一度キス。口移しに与えても戸隠さんは抵抗することもない。こくんと喉が動くのを指先に感じた。
キスは続けたまま、指を首筋から肩、腕に滑らせ、脇腹から胸に触れる。カシミアの手触りの良い薄茶のチェスターコートの隙間から手を差し入れる。今日はいつものワイシャツではなくフリース素材の白いハイネック。その下にはやはりアンダーを着ていないので、胸に触れた指先がはっきりとした胸先の小さな果実に触れる。
摘まんで、やわやわと揉んで、親指で潰して、掌で豊かな胸筋ごともみしだく。アルコールのせいか普段のような過敏な緊張は見られず、代わりにぴくっぴくっと小さく震える。ふれあった唇がだらしなく開いたまま、小さな舌が出しっぱなしになってしまうのが可愛い。
「少しましになりました?」
ちゅっと唇を食んでから離れると、はふっと吐息をこぼしてこくんと頷く。かわいい。かわいすぎる、48歳!
俺は抱きよせた戸隠さんの髪の中へ鼻を潜り込ませる。年齢的には油の酸化したような匂いがするはずのそこからは、かすかなアルコールに混じって甘い彼自身の匂いがした。
タクシーの目的地までは20分少々。そんな時間にどうこうすることも出来ないので、ムラムラと湧き上がる抱きたい気持ちを抑えて流れていく窓の外を眺める。
一方の戸隠さんは俺の肩に頭を預けたまま、うとうとと眠り始めていた。
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