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11.戸隠さんとカウントダウン②

 30日。  日付が変わる30分前の映画館で、一番後ろ中央の席に俺と戸隠さんは並んで座り、大きな画面を流れるCMを見ていた。  膝の上には夕食代わりのホットドックとナチョスと山盛りのポップコーン。飲み物はビッグサイズのコーラ。おおよそ健康診断の結果が怖い年齢層では許されないジャンクチョイスに二人してにやにやと笑いあった。 「ごめんね、迎えに行くの、遅くなって」  CM中なので割と普通の声で戸隠さんが謝ってくる。  聞けば戸隠家を出たのがそもそも遅く、アヤさんの実家にたどり着いた時には夕食時になっていたらしい。送り届けてさっさと帰ろうと思っていたら、当然のように食事に引き留められた。お酒まで勧められたが、睡眠導入剤と精神薬を飲んでいるので、と正直に申告して断った。実際はもう睡眠導入剤しか飲んでいないのだが、かつて精神薬を飲んでいたのは事実だ。お堅いおうちなので、精神的な疾患を持っているなんて聞いたら、嫌がるだろうという目論見もあった。 「そしたらものすごく気遣われちゃってね。藪蛇だ」  生活が大変なのだったらうちを頼ればいいととかなんだとさらに足止めを食らい、挙句の果てに戸隠家のあの家を処分して、同居する話まで強引に出てきたという。  それはさすがに娘さんが拒否をした。初孫可愛い祖父母としては抗えず、そこでようやく解放されたのだ。その頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。 「気にしないで。俺の方も思いのほか整理整頓に時間がかかってましたし」  俺はははは、と笑って返した。  ゴミは普段から溜まらないように気を付けていたし、モノが増えると整理がつかないことは自覚していたから不必要になったと感じたら即捨てている。結果、大掃除だからと改めて出さなくてはならない不用品は昼前の最終収集までにあらかた片付いていた。  問題は整理がついていない物と滅多に洗濯しないカーテンだとかシーツだとか枕カバーだとかの大物衣類である。自分では気づかないがきっとそれらには生活臭が染みついているはず。洗った記憶は引っ越して以来なかった。  行慣れないコインランドリーへ大物衣類を背負って向かい、洗濯から乾燥まで一貫して片付けた。あまり利用したことがなかったからいつもの洗濯のように3、40分とかそのくらいで終わるだろうと考えていたのだが、実際は一回90分ほどかかってしまい、その上全部をまとめて、ともいかなかったので2回に分けたら日が暮れた。  マットレスには衣料消臭剤をかけて、ベッドの下には念入りに掃除機をかける。ホテルのベッドメイキング、とまではいかないが、それなりに綺麗になったと思った頃がたぶん戸隠さんがアヤさんの実家から解放されたくらい。連絡がまだ来ていなかったので、近くのドラッグストアへ行ってゴムとローションを買いに出かけた。おおよそ8年ぶり、それも自宅で自分用以外に使うのは初めてで、初めて筆おろしされた(童貞喪失した)時のように変な期待でドキドキした。  昔買っていたまま使っていなかった百均の白い駕籠に、封を開けたそれらと袋に入ったままの黒いエネマグラをセットして、ベッドの下に忍ばせてきた。 「始まったね」  照明が落ちて、一瞬真っ暗になる。再びスクリーンに映像が映し出され、白い光が戸隠さんの顔を照らした。  その顔を俺はちらっと伺う。  実は袋に入ったエネマグラと同じものの開封済み品を、俺は昨晩戸隠さんを送り届けた際に彼の綺麗に片付いた部屋で見つけてしまっていた。  場所はベッドの上、枕の下。使用済みのローションのプラスチック容器とともに。  掃除の最中にそれを思い出してしまって実は迎えに来てもらった時からずっと落ち着かない。 ――――ネコになって、あげよっか?  お誘いがあったのが先週のクリスマスのこと。その時にはすでに使用した後だったのだろうか。だとしたら気遣って手を出さなかった時間を無駄にしたと悔やまれてならなかった。  いつから、そのつもりだったのだろう。  少なくとも美俊さんが生きていた時はバリタチだったそうなので、尻の開発はしていなかったはず。  ホテルでは射精したのが16年ぶりとか言っていた。  もし俺と同じつもりで買っていたのなら、この数か月内だろう。 「う……っわ」  こみ上げてくる想いを叫びだしそうになって口元を押さえる。 ――――恋してるんでしょ。穴孔(けつあな)の一つや二つ、ばーんとかしてあげなさいよ。  頭の中でかっちゃんが尻をスパーンと叩いている情景が浮かぶ。俺がタチの矜持と戸隠さんへの想いに揺れて穴孔開発具(エネマグラ)を開封できなかった間に、彼は俺を受け入れる覚悟を決めていたのだ。  好きだとは、まだ言われたことがない。でもその覚悟を愛と呼ばずしてなんというのか。  抱きしめたい。  そう思うけれども、肘置きが微妙に二人の間に距離を作る。俺は足先をずらして、戸隠さんの靴に触れた。靴先の次は膝を、そして肘置きに置かれた手に手を重ねた。 「どうしたの? 手があったかいけど。眠い?」  戸隠さんが優しく耳元へ囁く。  深夜のマイナーネームな映画館に人はまばらだ。多くは家に帰りにくかったり、終電を逃したり、なんらか夜を超えるためだけにそこにいる。一番後ろでシネマデートをしている同性サラリーマンの私語をとがめる人はいなかった。  俺は重ねた手に少し力を込めて、映画そっちのけで戸隠さんを見つめる。 「抱きしめたくなった」  俺の熱っぽい口説き文句を呟く唇を、戸隠さんは人差し指で軽く抑える。 「あとでね。時間はたっぷりあるよ」  そう言って聖母のように微笑み、おあずけの代わりに音のないキスを何度も与えてくれた。

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