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11.戸隠さんとカウントダウン③
31日。
朝日が水平線から頭の先をのぞかせ、白々と明けていく藍色の夜空が澄み渡った薄い青色に変わっていく。
「あ゛ー!! さっっっみぃー!!」
「あははは、さいっこー!」
普段なら想像もできない程ガラガラの幹線道路上。
俺と戸隠さんは徹夜特有の妙なハイテンションのまま、BGMには世紀末に流行ったアニメの主題歌をガンガンに響かせ、冬場のオープンカーという正気の沙汰ではない状態で馬鹿笑いしながら車を時速80キロで走らせていた。
映画が終わったのが午前2時すぎ。
それから家に帰るのがもったいなくて、気恥ずかしくて、どちらともなく24時間営業のレストランに入ろうと誘った。
今日の映画の感想やこれまで見た映画やドラマの話、最近読んだ本のこと、今年の仕事の振り返り、ジムのトレーニングについての意見交換、田代さんをネタにした戸隠さんの学生時代の話、それぞれの世代で流行ったモノ等等……。山盛りのポテトフライとドリンクバーで夜明け前まで他愛もないことで駄弁って過ごす。そこで湾岸にある大型ショッピングセンターまで車を走らせて、10時まで2,3時間ほど仮眠をとって、買い物をして帰ろうと決めた。
まるで中高生のようなデートだ。それが妙に俺達は楽しかった。たぶん、俺も戸隠さんも、あんまり「正しい交際」の経験をしてきていなかったからだ。
俺は走る車の強い風の音にかき消されないように、助手席で首をすくめて体を小さくしながらも声を張った。
「俺、付き合う相手がそもそも年上ばっかりだったんで、実はこういうデートってしたことなかったんですよね」
それに彼らは恋人ではない。言うなればパパ活だ。
だいたい待ち合わせるのは午後の遅い目。彼らに水族館へ行くとか博物館へ行くとかの教養があるわけでなし、海で泳いだりスポーツを楽しんだりするような体力もない。
呼び出されて、買い物とか旅行なんかして、食事して、ホテルに入って、セックスして、朝ごはんを食べて、別れる。
ビジネスで付き合っている。最後にはお金であとくされなく終わる関係。恋じゃない。
「78歳の彼は?」
「ああ……。彼は、彼氏でしたね」
それは契約というお金で始まった関係だったけれど、きっと恋だった。
初めてセックスのための夜じゃなく、明日を楽しみにするための夜を教えてくれた。
彼が連れて行ってくれたのは亡くなった奥さんといつか行きたかった場所だったから、自分はその代用でしかない。わかっているのに前日から一生懸命に一緒に行こうと口説かれて、段取りを計画して楽しみだねと眠るのが楽しかった。翌日は朝から出かけて、同じものを見て、楽しんで、笑いあった。教養も、感性も豊かで、好奇心にあふれていたから、それまでの人生を続けていては一生知ることのなかったハイカルチャーな世界を俺は知ることができた。
世界は、こんなにも柔らかく、瑞々しく、心地のよいものなのだと教えてくれた。彼は客であり、友人であり、父親であり、先生であり、一生叶うことのない恋心を捧げた片思いの人だった。
「初恋だったの?」
合流で減速したタイミングで戸隠さんが尋ねる。俺はははは、と笑った。
「初恋はね、実は違うんですよ」
甘酸っぱい初心な情熱で、初心な股間をじんわりと温めてくれた初めての相手は中学校の学年主任の先生だった。
ただそれが恋だったのかなんだったのかはその当時はわからなかった。生活が苦しく、母親が男をとっかえひっかえするような生活で内省する余裕なんてなかったから。
彼はそんな俺を心配してくれて、進路についても、家庭の問題についても親身になってくれた。
「俺あんまり学校好きじゃなかったんですけど、その先生に褒めてもらいたくてがんばりましたよね。明日が来るのが楽しみで、喜んで欲しくて勉強もいっぱいしたような気がします」
今振り返ってみると、既婚者、枯れた年上、上品な教養高い余裕ある紳士という性癖は、もうこの時に定まってしまったのだろうと思う。その上でナイスバディの未亡人風情の美人なんだから、戸隠さんに堕ちない理由がなかった。
俺はギアにかかった戸隠さんの手に手を重ねる。BMWといっても日本仕様車なので、右ハンドルなのだ。
彼の左薬指にはまった指輪は、俺の冷え切った手よりもなお冷たかった。
「凍傷になるんじゃないですか?」
「それで左指と一緒に落ちちゃったら、あとくされもないのかもしれないのにね」
「嫌ですよ。こんな綺麗な指なのに、なくなったら」
俺は戸隠さんの左手を取って口元に寄せる。冷たい指に、はあっと温かい息をかけた。
ちらっとみたらまた鳩豆顔だ。
「運転、できなくなっちゃう、よ」
「それは大変だ」
俺はそっと戸隠さんの手を放す。彼はギアで変速してまたスピードをあげる。
寒さに血の気を失った白い顔をほんのり赤く染めて、俺が唇で触れていた指を、戸隠さんも自分の唇に寄せた。
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