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第4話
「レオニス様、到着」
インカムから聞こえた声は緊張していた。
さっきまで軽快に笑いながら冗談を言い合っていた空気はまるでない。特別な客が来るとチーフが連絡をしてからずっとだ。
レオニス。
この街に来てまだ歴の浅い俺でも、そいつの名は知っていた。
「メテオラ」の創始者。この街の頭。――つまり、吸血鬼のボス。おそらく1番古い真祖の血族だろう。何千年と生きてきた奴かもしれない。この街に住んでいて知らない者はいないはずだ。
名を知っていても、見るのは初めてだった。
この「キューブ」という店に、稀に出入りすると他のバウンサーが噂していたのを聞いたことはあったが、本当だったのか。
入り口の方から、緊張のかおりがする。物理的にだ。人間は緊張すると体臭が変わる。今までに嗅いだことがないほど、強いにおいだった。
だが、吸血鬼が放つ色濃い血の臭いはしない。いくら鼻をひくつかせてもだ。
黒服達の一団が、VIPルームの階段前に現れた。バウンサーもさらにそれを取り囲んでいるため、当のレオニスはよく見えない。
非常口上の螺旋階段をゆく。
その時、手すりを掴む華奢な指が見えた。ゆっくりとした足取りで登っていく姿が。
「……」
一瞬目を見張る。
驚いた。
何だあいつは…
血の臭いが一切しない。
ライトベージュの上質なスタンドカラースーツを着ているが、その中にある身体からは生気を感じなかった。手足が長く黄金比のしなやかな肉体だが、動きは緩慢で足取りは重い。銀髪は綺麗に整えられていたが光を失い、くすんでいて。肌は抜けるように白く色を失い…薄氷のようだった。
外見の歳の頃は30歳ほどに見えるが、俺にはそれが立ち枯れた老木のように思えた。
(本当に吸血鬼か?)
訝しむほど、意外だった。
確かに吸血鬼らしく顔立ちは整い、美しい。真祖らしい高潔さや気品も持っている。だがその男からは覇気も強い妖力も感じなかった。
「今にも、死にそうじゃねえか」
思わず小さく呟く。
だが――そう思ったことをすぐに撤回する。
階段途中で不意に薄氷の男が足を止め、寸分違わず俺を見た。
キョロキョロすることもなく、一瞬で射抜かれた。透明度の高いアイスブルーの双眸で。
ギクリとする。
俺は目を伏せ、身を引いた。無意識に隠れたのだ。
「……」
男はすぐに興味を失ったのか、俺が感じた鋭い刃のような視線はなくなった。だが階段を登る一団が見えなくなるまで動かなかった。
侮ってはならない。
俺の本能が言う。
心臓を無遠慮に鷲掴みにされた心地だった。
その一瞬で、俺はレオニスという男を理解した。
大昔、大陸で人狼狩りに巻き込まれた時、真祖の一族に助けられたことがある。その壮年の吸血鬼はエメラルドのような緑の瞳をしていたからレオニスの血族だったかはわからないが、醸し出す強大な妖力は似ていた。まだ若かった俺は、尻尾を巻いて怖気付いたのを覚えている。
流石に俺も長く生き、蓄えた力もある。あのレオニスに腰が引けることはなかったが、奴が衰えていなければわからない。
吸血鬼と人狼は昔話の中では対立していると書かれがちだったが、そうでもない。生き方も考え方もまるで違ったし、衝突するきっかけもあまりなかった。お互い屈強で「ほぼ不老不死」という運命を背負ったクリーチャーだと認識し合っていただけだ。
大きく違ったのは…
吸血鬼達は長い時をかけて、日の目を見て世界に君臨する種族となった。
だが、人狼は俺をひとり残し、滅びた。
それは誰のせいでもないし、俺の一族の理にしかすぎなかった。だから吸血鬼達を羨むような気持ちは皆無だったが、俺の胸にある空しさが埋まるわけでもなかった。
「ほぼ不老不死」の運命は残酷だ。
孤独を感じれば感じるほど、俺は「死なない」。
「おい、スラッシュ」
インカムから声がする。ハッとして耳についていたそれを押さえた。
「何だ」
「レオニスが入ったVIPルームに酔っ払いが上がって行くぞ。オーナーが部屋を出た後だし、客が追加で来るとは聞いてねえ」
見てなかったのかと責めるような口調で、焦りも帯びていた。螺旋階段を見上げると、男女が部屋の扉を開くところだった。
壁から背中を離す。が、逡巡もした。
レオニスに会いたくない。
正直、そう思った。
だがそうもいかない。上のVIPルームは俺の預かりだ。この店のオーナーもまた古参の吸血鬼で、レオニスとはかなり馴染みのようだった。出生がはっきりとしない身の上で得た仕事は失いたくないし、吸血鬼と諍いするのも避けたかった。
俺は舌打ちをして、大股に螺旋階段を上がる。
扉を開くと、状況はわからないが…酔っ払いのスキンヘッドが酔った女をレオニスに押しやっているところだった。当のレオニスは背中に手を回して、ただ疲れた顔をしていた。
「揉め事か」
俺は問うた。
レオニスは俺を見て、さして驚きもせず唇の端を少し歪めただけだった。やはり生気のない立ち枯れたような佇まいだが、存在感だけはすこぶる強い。
スキンヘッドの方が怒鳴る。
「うるせえ! すっこんでろ!」
スキンヘッドはかなり酔って気が大きくなっているようだ。レオニスの醸す強者のにおいには気づかない。いや、そもそも人間はそういうことには鈍感か。…今だけはその強気さを誉めてやりたくなった。
「随分酔っているらしい。彼らは休んだほうがいいだろう」
穏やかで、涼しげな声でレオニスが言った。さっき螺旋階段で目があったのが俺だとはわからないらしい。ほんの少し安堵する。
バウンサーという立場上、酔客がレオニスに危害を加えさせぬよう間に入る。だが「必要なのか?」という気持ちもあった。背後にいる男が真の力を出せば、俺でもかなうかわからない。眼前にいるか弱い人間より、背中に感じる威圧の方が俺の頸の毛を逆立たせる。
早くこの騒動をおさめるのがいい。
「出ろ」
俺は短くスキンヘッドに言った。
睨め下すと、酔眼に一瞬恐怖が走るのが見えた。
だが、酒の入った人間は愚かでどうしようもない。酩酊した脳味噌は、俺への怒りを抑えられなかったようだ。
スキンヘッドはテーブルの上にあったワインのボトルを掴み、緩慢な動きで俺の額を殴った。
動かなかったのは、背後にレオニスがいたからだ。
俺は、奴と面倒を起こす方が避けたかった。
ボトルが割れ、液体が飛び散る。
頭に衝撃が来たが、俺はワインの香りを楽しんだ。今やワインなど普通飲むこと叶わないほど高価だ。
温かい血が顔を滑るのもわかった。
だが、切れた額の皮膚がすぐさま癒着するのを感じる。俺の鼓動を早めることもない。流石に背後に一歩傾いだが、体を戻しながらスキンヘッドの喉を掴む。まっすぐ腕を伸ばせば、男の腕は俺に届かない。
スキンヘッドは呻きながら数発俺の腕を叩いたが、頸動脈を絞めるとすぐに力を失った。首の骨を折るまではない。
扉から男を押し出すと、上がって来ていた他のバウンサーに向かって突き飛ばした。昏倒していたスキンヘッドは、奴らに引き摺られて階段を降りてゆく。
「待て、もうひとり…」
部屋に残した女を思い出し、シャツの袖で額を拭いつつ踵を返し部屋に戻ろうとした時だった。
部屋の中から女が…言葉通り投げ飛んできて、俺の胸にぶつかる。
女が何かを喚いたが、それより。
投げ飛ばしたのは、誰だ。
あの、老木のような男が?
まさか。
…俺は、そう思った自分を、後から酷く呪うことになる。
喚く女を、別のバウンサーに引き渡し、顛末を知るために部屋に戻る。
間違いだった。
伸びて来たライトベージュの布に包まれた腕。それが俺の腰にぐるりと回る。もう一方は、俺の左腕を掴んだ。
「!!」
ハッとした時には遅かった。
レオニスの銀髪の前髪から覗く、長いまつ毛に縁取られた美しいブルーの瞳が俺の眼前で万華鏡のように輝く。
しまった。
これは「魅了(チャーム)」だ。
クリーチャー同士いくらか耐性があるとは言え、こう真正面から見られると……
四肢が痺れ、膝から力が抜ける。
遠のく思考の中で、俺は「何故」と考え続けていた。
何故、俺が…と。
背中と後頭部が何かにぶつかる。だがそれは柔らかく…さらに俺は脱力する。脳は酩酊しているのに、触覚だけは鋭い。
のし掛かるというより、絡みついて締め上げるような力が身体に加わる。冷たい指が首筋を這い、ビッという布が裂ける音がした。更に指は顎をつたい押し上げる。
首筋を硬質な細い何かがなどった。
咬まれる……
ぼんやりと思った。
焦燥はあったが、他人事のように遠い。
尖った牙が皮膚を貫く痛みより、柔らかな唇が俺の首筋に吸い付く感触に瞼が震える。濡れた温かい舌が、愛撫するように血管の上を擦る。咬みつかれたところから甘い疼きが全身へと広がって、何故か下腹に血が集まる感覚があり、勃起しそうだと思った。
「ウ……」
クソ――、…これは間違いだ。
心地が、いいわけない……
コックコックとレオニスの喉が鳴る音が聞こえる。同時に、俺の心臓がドクドクと脈打つ。身体から失われる血液を補充せんと、次第に早くなってゆく。
チャームによる酩酊に、眩暈が混じる。
血と共に熱が奪われてゆく。寒さを感じるのに、心臓と脳髄だけがオーバーヒートしそうに熱い。視界が暗くなってくる…
なのに、絶頂に向かうような高揚感が身体の芯を貫いていて、動けない。
ヤバい
吸い尽くされる
初めて死を間近に感じた。その恐怖が俺を正気へと導く。
「や、め…ろ…!」
喘ぎながら歯噛みして声を絞り出した。強烈なチャームの呪縛から思考を強引に引き剥がす。渾身の力を左手にこめて、俺に食らいついているレオニスの首を掴み、引き剥がした。
ブツっと皮膚を裂かれる音がしたが、構っていられなかった。そのまま力任せに体を覆し、レオニスの首を渾身の力で締め上げながらソファに押しつけた。
普通なら、首がへし折れているか、窒素する。加減も何もしなかった。
だが…
たっぷりと俺の血を飲んだレオニスは、うっとりと目を細めて見上げ、微笑んでいた。俺の血で唇を染めたまま。
そして
「おいしい…」
そう言って、艶やかな赤い舌で唇を舐めた。
くそ、何なんだ。
勝手にガブガブとひとの血を飲みやがって。人間相手ならば殺してしまうほどの量だ。耐えられたのは俺が人狼だったからだ。
いいように組み敷かれ、蹂躙された怒りに全身が震える。今度は俺がお前のプライドをズタズタにしてやる。そう思って手に力を込めた。
だが、レオニスのほっそりとした首は滑らかなのに鋼鉄のようだった。みるみるその体に力が漲り、生気を取り戻してゆくのが掌から伝わってきた。
殺意を込めて見つめる。
レオニスは――
濡れた瞳で俺を見上げて、長い指で俺の頬を撫でた。
「お前はなんだ? どうして…」
愛しむように、指が滑る。ゾッとして顎で手を弾く。
それは俺が聞きたかった。何故俺の血を馬鹿みたいに飲んだのか。
口を開きかけた時、後頭部に強い衝撃を受けた。
いつもならば、ものともしなかったろう。だが大量に血液を失っていたせいだ。
視界が揺らぎ…眩む。
(くそ…)
悪態をつきながら、意識を手放した。
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