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第6話

懐かしい香りがする。 金木犀… 俺の1番、好きな香り。 それに縋るように鼻先を上げる。 「……」 何かが当たる。ちくちくと。 重い瞼を何とか開くと光を感じたが、白いふわふわしたものが目の前を覆っていた。 そして耳に。 すんすん、と誰かが鼻を鳴らす音がした。口から音を立てて息を吸い込むと、白いふわふわが動いた。 青い双眸が俺を見ている。形の良い眉を悲しげに寄せて、薄い桃色をした唇が動いた。 「よかった、目を覚ましたか」 レオニス。 ゾッとするような美貌で俺を見ている。まだ少し朦朧とする頭でも、その瞳に強大な妖力が宿っているのがわかった。 俺の血を飲んで力を取り戻したのか。 さっき感じた枯れ木のような気配はどこにもない。 目の前にいるのは、真祖の吸血鬼だ。 「どけ」 短く言う。 俺の体に縋るようにくっついていた男は、ハッとして距離を取る。その時ふと金木犀が薫る。石鹸だろうか…レオニスの肌からだ。男は少し俯いてーー驚いた。申し訳なさそうに身体を小さくしている。 体を起こし見回すと、キューブのVIPルームではなかった。天井の高い広々とした窓のない漆喰の空間に、質のよい調度品が置かれている。黒を基調にしたそれらは整然として無機質だったが、間接照明は温かな電球色だ。本物かはわからないが観葉植物も置かれ、壁には絵の代わりか大きなモニタがあり、優雅に泳ぐ魚が映し出されている。 知らない場所。予想するならばレオニスの私室だろう。奴は私服に変わっていたし、濡れた髪にバスローブをまとっていたから。 眩暈はしない。体はまだ重いが、昏倒している間に体はある程度回復していた。殴られたのであろう後頭部をなでる。乾いてベタベタし、髪からはまだワインの匂いがした。 「その…まずは詫びさせてくれ、すまない。私は酷い無礼を」 よく通る涼やかな声で、レオニスが言う。 もっと不遜な態度を取るのかと思っていた。 膝に肘をついて、詫びる男を見る。 組んだ指を揃えた膝の上で硬く握りしめている。指先が赤くなるほどに。緊張にか肩をすくめ、濡れ髪も相まって20代そこそこの若造に見えた。だが、感じる気配は強大な力を孕んでいて、そのあべこべな違和感に眉を寄せる。 どっちの姿が本当だよ… 目を眇めて見ても、わかりはしなかった。 「馬鹿みてぇに飲みやがって。人間なら2人ほど死んでるぞ」 枯れた声が出て、咳払いをした。 「すまない! まさか、私はそんなにお前から血を…」 困惑を滲ませたブルーアイズ。真っ白だった肌には赤みがさしていた。それに、腹立たしいことにその身体から俺の血の匂いを嗅いだ。 「それ相応の詫びをもらうぞ。人間の血で満足してりゃいいものを…俺の血で腹ァ満たすとはな」 「え。それはどういう…?」 気づいていないのか。 レオニスの困惑は本物だった。首を小さく傾げて、じっくりと俺に見入る。 舌打ちして続ける。隠していても今や意味はない。 「俺は人狼だ。だからお前に無茶な吸血をされても死なん。…死ぬかと思ったがな」 大きな自分の犬歯を見せながら煽るように言ったが、レオニスはそれ以上に驚きが優ったのだろう。目を見開く。 「人狼?…まさか。まだ絶えていなかったのか? 先の大災害で死滅したとばかり」 「俺が気を失うほどガバガバ血を飲んだお前には嫌と言うほどわかるだろ。それが証拠だ」 嫌味を言っても、レオニスはまだ驚いている。考え込むように自分の顎に拳を当てた。 「なら私は、数百年ぶりに…同じクリーチャーの血を…? どうして……」 眉間に皺を寄せ、そうしているとさっきまでの幼さは影をひそめた。 お前の事情など知らないし、どうでもいいが。 意外にもまともに話ができる相手だったからか、怒りが少し削がれる。もともと、他人と関わりをあまり持たずに生きてきたせいで、こんなに話したのはいつぶりだろうとも冷静に思っていた。 怒りは疲れる。実際、肉体の疲弊はまだ続いている。 俺はソファの背もたれに体をあずけた。 「まずはシャワーだ。あと服。飯が食いたい」 半眼を向けて言うと、レオニスはハッとして「そうだな、確かに!」と慌てて立ち上がると、レオニスは素足をペタペタ言わせながら浴室に俺を連れて行く。立ち上がれば男は俺より頭一つほど背が低く、横幅もない。華奢な頸を見ながら「こんな男に蹂躙されたのか」と悔しさを再度噛み締めた。注意を欠いた自分にも苛立ちを覚えたが、どうしても矛先は目の前のレオニスにいく。 「使ってくれ。服は用意しておく。食事も。事情はまたその後でゆっくり」 「食事はいらん。この街の料理は食えたもんじゃない。食材を用意してくれ、自分で作る」 「では、食材は何を…」 「何でもいい。料理に必要なもんは全部」 レオニスの眉が困ったように寄る。少し面白くて、それ以上助言はしないでいた。しばらくの間何か言ってくれやしないかと期待を含む視線を俺に向けていたが、諦めたようだ。そして、決したように頷き「わかった」と応じた。 襟首を破られたシャツを脱ぐ。靴を脱ぎ捨てベルトに手をかけたところで、目を細めて、横目でレオニスを威嚇する。 「俺を眺めて涎をたらすな」 「!」 男は慌てて片手で口を覆う。物欲しそうにしていたのは無自覚か。あれだけ飲んでまだ腹を減らしているとは、とんだ大食漢だ。 「あ、その。ゆっくりしてくれっ」 レオニスは踵を返して、早足にリビングの方に姿を消した。 チクショウ。俺はてめえの餌じゃねぇぞ。 スラックスを脱いで、苛立ち紛れに床に叩き落とす。磨りガラスで囲われたシャワー室に入ると、すぐに熱い湯を浴びた。冷たい大理石の壁に手をつく。ワインの香りが流れてゆく。肌が温められる感覚に、幾分かは心が落ち着いてきた。 咬まれた首筋を撫でる。 傷はなかったが、あの感触は鮮明だ。 肉体も、思考さえ支配された。 体がすべて、他人のものになった感覚。 何に驚いたかって、それが不快と感じなかったことだ。チャームの力で縛られていたとはいえ、俺は人狼として生まれ、食物連鎖の頂点にいた。 その俺が。生まれて千年と数百が経たたんとする中、初めて「獲物」となり食われたのだ。 それが腹立たしい。 噛みつかれた分、噛み引き裂いてやりたい。身体から滴る湯が排水溝に流れてゆくのを眺めながら思う。 そんな中。ぐぅっと腹が鳴る。 自己嫌悪と怒りの言葉を並べても、気分は良くならない。 辛酸は十分舐めた。 やめだ。 飯だ。腹を満たそう。 煮込みが食いたいが、今は手っ取り早くできるものがいい。この街のプラント肉の質はすこぶる良かったし、ソースに少し手間をかけるだけして、肉はソテーするだけでもいい。 今はせいぜい、あの男にたかってやろう。 そして… 隙あらば、俺が蹂躙してやる。 それでおあいこだ。 湯を止めて、タオルで体を拭いた後腰に巻く。服を用意すると言っていたから、床に散った汚れた服を跨いでリビングに戻る。いよいよ腹の虫が限界だ。 レオニスは玄関と思しき扉の前にいた。ローブは脱ぎ、ラフな格好で何事かの差配をしている。観音開きの扉から箱に入った何某かがどんどん室内に運び込まれている。 「何事だ」 濡れたままの髪をかきあげ、問う。レオニスが気づきこちらを向いて微笑んだ。 「食材だよ。それに料理をすると言ったから道具をね」 「は?」 「さあ、好きなものを選んでくれ」 早足に近づくと、箱の中には野菜やら何やら、確かに食材が入っていた。奥に見えるキッチンに目をやると、真新しい鍋やフライパンが積み上げてある。 「私は料理をすることがなかったから。安心してくれ、階上にあるレストランの厨房から運んでいるものだ。ちゃんと厳選した食材だ」 「……」 「あ。それとこれ。お前のサイズだと思う。私のだと窮屈だろうからね、これもブティックから持って来させた。好みかどうかはわからないけど、今はこれで我慢して欲しい」 そう言ってレオニスが差し出したのは、質の良い鈍色のニットと、黒い綿のスエットだった。ぶら下がったままのタグには驚くほどゼロが並んでいる。 「……」 それを手に押し付けられる。未だに食材の入った箱がレストランの店員によって持ち寄られていて、レオニスは何を思ったのかひとりのギャルソンを呼び止めると、その腰に巻かれていたエプロンを寄越せと言っている。 ギャルソンは慌ててエプロンを外しレオニスに渡すと、男は俺に向き直り言った。 「料理をするなら、これも必要だろう?」 そうして、服の上に少し整えて畳んだエプロンを乗せた。 「……か…」 「え? まだ何か必要なら言ってくれ。おそらくここではなんでも揃…」 にこにこと微笑みながら、俺を見上げつつ言った言葉を遮る。 「加減というものがあるだろうっ!」 俺の困惑を含んだ怒声が、リビングにいた全員を固まらせたのは言うまでもなく。 レオニスは目を丸くして、キョトンとしていた。 俺はため息をついて、目頭を押さえた。 この男…規格外過ぎる。
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