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第7話
スパイシーな、それでいて甘いかおり。
今まで一度も使ったことがなかったコンロに火が入り、男がその前でフライパンを振っている。油が弾ける音。調味料を加えると更にジュワッと音が高まる。
手際よく動く高身長の姿を眺めていた。引き締まった腰から広がる背中、がっしりとした頸…筋肉質な美しい身体だ。
あれが人狼?
まさか、本当に?
大昔に幾度か見たことはある。互いに個体数が少ない種族だし、生き方も違う。逢瀬することは稀だった。
だが、人間の文明が発展してゆくほど人狼は急速に数を減らしていったと聞いている。その理由ははっきりと聞いたことはないし、私に交流はなかったから理由は知らない。だが彼らは自然の中にいることを好み、都会的ではなかったはずだ。それ故だろう。
それが先の大災害で絶えたと聞いた。噂に過ぎなかったが。吸血鬼と一緒で不老不死の強靭な身体を持っていると言われた人狼だが、「死滅した」と一族の間で語られていた。
あの時、多くの種が絶滅した。
悲しいことではあったが、私はその中のひとつ…くらいにしか思っていなかった。
どうして…とは考えなかった。――「不老不死の人狼が何故」とは。
その疑問を晴らしてくれる者が、今目の前にいる。
私に二百年ぶりの食事をさせてくれた男。
…まあ、彼は望んでいなかっただろうが。
男には悪いが、やはりどうしても強い好奇心で眺めてしまう。それに美味しそうだし……いや、やめておこう。
男が皿を持ち振り返る。今はもう眼帯をつけていた。先程風呂上がりに見た時は、癒着してしまった左瞼に、皮膚ごとすこし落ち窪んだ眼窩があった。中に眼球はないのだとわかった。
じろじろ見ていたら、また牙を剥かれるかもしれない。私はテーブルの上に乗っていたロックグラスの液体に視線を落とした。
その視界の中に皿が滑り込んでくる。赤黒い香ばしい匂いをさせたソースがかかった肉。温められた野菜が付け合わせで乗っていた。ほわほわと湯気をたてている。
「え?」
男を見る。ひとつ席をあけて座る男の手には自分の分の皿がある。座ったと同時に肉にナイフを入れて食べ始めた。
「食えるだろ。食えよ」
一度飲み込んでから男は言う。
「流石に家主を前に、ひとり飯を食う気にはならん」
目もあげず、ただ丸呑みするように料理を食べる。ときおり、無意識か目を閉じてすこしうっとりとしつつ軽く頷いている。その時だけは深く刻まれた眉間の皺がほどけた。
「じゃあ…お言葉に甘えて」
無造作に皿に添えられていたナイフとフォークを取り、肉を切る。やわらかい。
口に入れると…
「おいしい…」
ソースは何だろう。ほんのりと人参やセロリ、玉ねぎの味がする。ただの焦がしたトマトソースかと思っていたが、細切れになった野菜がたくさん入っているようだった。味気ないプラント肉が濃厚に感じる。
夢中になって食べた。
温野菜も温かく柔らかい。ソースを拭いながらペロリと平らげる。
そういえば、キューブで食べたスープ料理。あれもこの男が作ったとクリスチャンが言っていた。
「随分、料理が上手いんだな」
恐る恐る話しかける。
「昨今の飯は昔のような味じゃねえからな。自分で作る方がいい。……世代が変わって忘れられてきてんだろうよ」
男は抑揚なく言う。ひとまず会話が出来たことにホッとした。
カチャカチャとカトラリーが皿に触れる音だけがしばらく続く。私の皿よりずいぶんと量があった男の皿も空になり、彼はグラスの水をぐっと飲み干すと「あァ…」と満足したように息をついた。
親指で口元を拭い、その指で皿を軽く押しやった。
「で? 何で俺の血を飲んだりした。お前らの主食は人間の血のはずだろ」
落ち着いた低い声が言う。隻眼は私を捉え、質問に否応がなかった。こんなにも他人からまっすぐ見られるのはいつぶりだろうか…そんなことを少し驚きつつ、私は言う。
「私は、この二百年ほど人血を口にしていなかったんだ。何故だか飲めなくなってしまってね。飲むと吐いてしまうか著しく体調が悪くなった。それを繰り返しているうちに、吸血自体をやめてしまったんだ」
男はそんな吸血鬼としては突飛な私の言葉に、少し目を見張る。
「……よく生きてこれたな」
「嘘だとは思わないのか」
「鼻はいいんだ。お前がさっきまで枯れ枝みたいだったのはわかってる。吸血鬼のくせに血のにおいがしないのも不思議に思ってたしな」
「そうか。…まあそれで、お前があの部屋で出血したとき、私自身も思いがけない感覚になってね」
男は机の上で、墨色の爪を弾きながら聞いている。
流石に少し言いづらくて、視線を彷徨わせた。
「つまり、お前の血の香りがした時、飲みたいと……」
「で、俺を襲ったのか」
唇を引き絞り、頷く。
男が鼻を鳴らす。
「今、体調は?」
「え?」
「身体の具合、いいのか。まあ悪そうには見えねえし、妖力も取り戻してるみたいだが」
指で指し示しながら言われて、自分の胸板を撫でる。
「あ、そ、そうだな」
「人狼の血だ、人間のより何倍も精力が強い。一回でそんだけ力取り戻すのは当たり前だ」
「やはり、そうなんだろうな……濃厚で美味しかった」
「止せ。言ってんだろ、その目で見るな」
男が顔を顰めハッと瞬く。しかしどんな目だろう。物欲しそうにしてるんだろうか、そうだとしたらやはり失礼が過ぎるな。
男は――そういえば。まだ名前を知らない。
「今更なんだが、お前の名前は?」
男の赤い瞳が、一瞬逡巡する。
「……スラッシュ、そう呼ばれてる」
本名ではなさそうだ。おそらくは、髪に一筋走る白髪に対する愛称だろう。
「スラッシュ。そう呼んでも?」
男、スラッシュは少し顎を引く。
落ち着いた態度。警戒心は感じるが物怖じはしていない。澄んだ赤い瞳に今は怒りを感じず、凪いだ海のようで底が知れない。見た目は30歳後半から40歳ほどに見え、思慮深さを引き締められた唇の端に感じる。だが本当はいくつなのかわからなかった。
けれど、わかることもある。
彼は確かに、私と同じ純血の存在だ。
その身体からは古く強い妖力を感じる。巨木がゆっくりと密度を重ねるように蓄えられた力だ。どこまでも続く黒い森林のような雄大さを感じる。畏怖と共にある大自然の包容力。その皮膚の下に、力強い生命力のうねりを。
(ああ……)
それに身体を丸ごと浸したい。
「何度言ってもやめられないところを見ると、それほど俺の血は美味かったんだな」
また、私はハッとした。
瞬き、スラッシュを見るとじっとりと半眼になり、呆れている。やれやれと言わんばかりに頭を振ると、
「まだ腹減ってんのか」
そう言った。
頷くことも不敬に思えて、視線を落とした。
いくら冷静に話していても、スラッシュから感じる鼓動と芳醇なかおりに思考が「食欲」に押し流されてしまいそうだった。
スラッシュが立ち上がり、踵を返す。
「来いよ」
私に顎をしゃくり、呼ぶ。
立ち上がりついてゆくと、リビングのソファだった。彼はそこに腰を下ろし、重ねたクッションに背中を預ける。
そして逞しい自分の首筋を撫で、顎を上げる。
「飲め」
「えっ」
「気が変わるぞ、さっさと飲め」
「でも」と言いかけたが、身体は正直に動く。ソファの上で傾いだスラッシュの身体の横に座る。
「チャームは使うなよ、ムカつく」
睨め下ろすような瞳が釘を刺す。ゾッと背筋が凍る恐ろしい視線だが、だからこそ艶っぽくもあった。
彼の身体に身体を重ねる。胸板に手をつくと温かく、強く打つ鼓動を感じて、さらに食欲がつのる。
さっきとは違う。我を忘れて貪ったのとは。
頭ははっきりしているし理性も起きている。申し訳なさと逡巡が額の真ん中でぐるぐるするような心地。反面、はやく、はやくほしい…と焦りもあり、自分でも辟易した。
いい香りに抗えない。
鼻先がスラッシュの首筋にあたる。触れた唇からどくどくと熱い血脈を感じ、悦びに痺れた。
舐めて湿らせた張りのある皮膚に歯を立て、それがプツッと弾ける感触。すぐに口の中に濃厚な血が広がる。
「ン…」
やはり美味しくて、思わず感嘆が漏れる。一滴たりとこぼすまいと、唇と舌で咬み傷を包み押し上げる。
どうして唐突に彼が吸血を許してくれたのか、真意はわからなかった。同情?……いやもしかしたら、私が「食事」している隙に変容して頭から噛み砕かれるのかもしれない…そう思わなくもなかった。
けれど…
それでもいい。
スラッシュには、そうする権利がある。
開き直りと言われればそれまでだが、それでも私は食欲に抗えない。思い出した性を拭い去るのは難しい。
「……」
スラッシュが大きく息を吐く。完全に許容されてはいないが、緊張もしていない。それを感じてホッとする。
慌てなくていい、ゆっくり。
彼の鼓動に合わせて…飲みすぎないように。大丈夫、身体は温かい。掌に感じる鼓動も緩やかで強い。吐息も深く穏やかだ。
温かいスラッシュの血が、私を満たしてゆく。
ああ、ああ…
美味しい
嬉しい
幸せだ……
ずっと空虚だった心が満たされる。
生きている意味も解らなくなっていた。
けれど――その深い穴を埋めてくれる者を見つけた。
ふと、スラッシュが身じろぐ。
腕が私の背中を擦り、大きな重い掌が後頭部に乗る。
「…泣いてんのか?」
低い彼の声がした。
言われて瞼を開くと、睫毛に溜まっていたのか雫がポタポタと浅黒い肌に零れる。噛みついたまま小さく呻いたが、幼な子のように上擦った。
スラッシュの掌が髪の上でかすかに揺れる。
「泣くなよ」
そう。困ったような声がした。
また目を閉じた。
頬を涙が滑る感触がした。
スラッシュはもう何も言わなかった。
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