17 / 37

第17話

「俺が戻るまで絶対オフィス出るんじゃねえぞ。いいな」  そう言って、何度も指先を私に突きつけてからスラッシュはエドと出かけて行った。まるで私がすぐ約束を破る子供だと言わんばかりに。  私だって、襲撃されるのはごめんだ。世論にレオニスは反社会団体に弱腰だと言われても、売られた喧嘩を買うのは思う壺である。そもそも悪評を流しているのが反社の息のかかったメディアであるし、無言を貫くのがよい。マフィアの奴らには歯がゆい思いをさせればいい。  おそらく、奴らの怒りを買ったのはある都市法案が通過したからだろう。  【医薬品の輸出入に関する法改定、およびジェネリック医薬品の導入】  昨今、人間社会ではあらゆる医薬品の開発が進んでいる。我らのように魔力を持つ種族には必要ない分野ではあるが、薬は病や怪我に弱い人類には必要不可欠なものだ。それ故、支援する我ら一族も、人間達も再起も急いだ。人間が子を産み増えても、早逝しては意味がない。  だからこそ、薬は常に最優先事項、重要取引の対象だった。  復興中も我らが均等に配給していた医薬品は、悪辣なグループが闇で薬を強奪し、高値で売りさばき、懐を肥やす材料となってしまった。渡るべきところへ薬が届かず、金の代わりとして闇取引に利用された時代が長かったのだ。  それは現在においても続き、未だ闇取引されている。  薬とは一口にいえど、悪徳な人間はそれを「ドラッグ」とする。違法薬物というものだ。今も昔もドラッグはマフィアの商売だということだ。  私が打ち立てた法案は、そのドラッグの流出入を取り締まるものであり、同時に一般的に流通している薬を安価に取引するものだった。  人間の治する都市部で医薬品の生産が安定してきたため、メテオラにも導入したのだ。この街は吸血鬼の街と言われるが、大多数は人間であるし、大半が真面目に仕事をし平和的な営みをしている。事故による怪我の治療、継続的に薬を必要とする者や、それを支える家族からすれば負担が減ると喜ばれた法改訂であったのだが、それを闇商売の種にしてきたマフィアからすれば悪法となったのだ。  私が奴らから売上と商売を奪ったのだから、恨まれるのも当然と言えるだろう。心外だが。  このマフィアとのトラブルの背景もスラッシュには語ったが、鼻息ひとつで返事を済ませてしまった。 「結局、金か」  と、彼は言って。 「短命なのに金をかき集めてどうすんだ」  と至極もっともなことを言ったが、私は「だからこそなんだろう」と返した。 「限界があるからこそ、人間は喜びや楽しみを探す。貪欲にね。それはエネルギッシュでいい一面でもある。けれど、時としてそれは過度な競争心や戦いを生んでしまうんだろう。勝者が得た金銭や高い地位は、人生においてのトロフィーみたいなものだから」  私の言葉に、スラッシュはポツリと言った。 「死ぬ時は身ひとつなのにか」  私はそれに返す言葉がなかった。  我らには所詮「他人事」だった。  人間からしたら、鼻持ちならない会話だろう。 「……」  マフィアの怒りを買った法改定の文書を再度読み返しつつ、私は頬杖をついた。 (平坦な道は確かに面白くない。難関や難問があってこそ楽しくはある)  けれど。  私の胸の中は不安で渦巻いている。  街で平和的に生きる人々の安全、それに献身的な私の一族の者達…彼らに災難がおとずれやしないか。理想の桃源郷を作る夢は遥か遠くだ。  そして。  私の懐に飛び込んできた、最後の人狼……スラッシュ。  彼が傷つくのを見たくない。  無事に私の元に戻って欲しい。  どうしてこんなに心配なんだろうと不思議に思うくらい、私は彼を失いたくないと思っている。  失った時を思って、不安なのだ。  彼もまた不老不死の者なのに。  今夜も、あの温かな胸に身を埋めたい。鼓動を感じたい。彼がそばにいると安心する。柔らかな若葉で包み込んでくれるような、あの雄大な気配…  思わずため息が漏れる。 (私は……、スラッシュが好ましいと思ってる)  初めは「食糧」としてだっただろう。  もちろん、今でも彼には腹を満たしてもらっている。けれど、時々…あの筋肉質な身体に触れているだけで満ち足りる。  癒されている、彼の存在に。  居心地がいいのだ。  何も隠さなくていい、ありのままでいい。  今までの私は、いつでも張り詰めていた。一族の中にあっても、仲間に弱さを見せてはならないと考えていたし、今でもそうだ。私が一族の筆頭である以上、そうでなくてはならない。だからこそ、皆も私に忠誠を誓い、献身的に支えてくれる。  でも、私を抱きしめて慰撫してくれる者はいなかった。  今までは。  けれど……スラッシュはあのエレベーターの中で、私を抱きしめてくれた。 「それでいい」と、弱い私を受け止めてくれた。  私はあの時、悲しかったんじゃない、嬉しかったのだ。対等な存在…いや、甘えられる喜びを噛み締めた。友人というのか…? いや、それとも違う。  スラッシュは――優しい。  本人は自覚しているんだろうか? いつでも私を気遣ってくれていること。扉を開け、私を先に通すタイミング。重い車のドアを閉める時、私を挟まないようにチラリと見ること。猫舌な私に配膳する料理は、ほんの少し冷ましてある。吸血の時でさえ、彼は私が居心地いいように、身体を開いてくれる。身じろぎする時は、「食事」が中断しないよう抱き寄せてくれる…  本当にたくさん、小さな世話を焼いてくれていることを。  よく気がつく男。と、いえばそれまでだが。  でも私は彼のそんな優しさを見つけると、嬉しくなった。口も態度もそう良くはない。だが滲み出る献身さがあった。  スラッシュは私を見てくれている。いつでも。  それが嫌じゃない。  邪魔だと思ったこともない。 (何なのだろう。この感覚は)  ぼんやりと、いつもスラッシュがくつろいでいるリクライニングチェアに目をやる。主人がいない椅子は少し寂しげだ。  立ち上がり、リクライニングチェアに腰掛けた。曇りの寒空が窓から一望できる。雪の季節が近づいてきている。近いうちに雪でクレーターの縁も白く染まることだろう。  ふと、背もたれのフェイクファーからスラッシュのコロンの香りがした。匂いにうるさい彼が唯一気に入っている、松の葉をベースとしたシャープな香りだ。  ファーに鼻を埋めて匂いを追う。  彼は、私をどう思っているんだろう。  やはり今でも己の血を吸う、煩わしい者なんだろうか。  高飛車な吸血鬼…?  それとも、泣き虫な吸血鬼だろうか。 (私は…)  ファーを撫でながら思う。 (スラッシュに好かれたい)  少しでもいいから。

ともだちにシェアしよう!