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第19話

「街は見られたか?」 「まだ全部じゃねえが、大体は。お前が街に出ても避けるべきところはわかった」 「そろそろ外出しても?」 「俺の影には隠れてもらうがな」 「お前を盾にしたいわけじゃないんだが……ところで、何だか距離が近くないか?」 「そうか?」  ペントハウスに戻るエレベーターでの会話。スラッシュは私の背後に立っていたが、何だかいつもより近い。彼の威圧のような気配がじわじわと染みてくる。 「お前の方が寂しかったんじゃないのか?」  冗談のつもりで言ったが 「そうかもな」  と返ってきて、思わず振り返る。  スラッシュは笑っていなかった。赤い隻眼が私をじっと見つめているだけだった。「冗談だろ?」と言い返すこともできなくて、また正面を向く。  胸に少し熱がこもるのを感じた。そうだと嬉しい…と無意識に思ったからだ。  ペントハウスに戻ってくると、私達は無言で互いの自室に戻る。スーツを脱ぎ軽く手入れをして、クリーニングのものは袋に入れる。シャワーで軽く身体を流す。スラッシュが多分好きな金木犀の石鹸を使う。 (この香りだと、『食事』の時抱きしめてくれる…)  彼が好きな香りなら、いっそシャンプーも金木犀にしようか。いや、香りすぎても鼻が効く彼は嫌がるかもしれない。  昨日は「おねがい」をしなかった。だから今日は欲しい。せめていい香りでいたい。  リビングに戻ると、スラッシュはすでにキッチンにいた。髪にはまだワックスがついていたから、彼は風呂には入らなかったようだ。食材を並べて下拵えを始めている。 「何か食いたいもんあるか」  目はカッティングボードに向いていたが、スラッシュは私に問うた。 「きのこがあるならリゾットがいい。ホワイトソースで」  何でもいいと言うと、彼はヘソを曲げるのだ。  スラッシュは少し考えてから「わかった」と応じた。 「手伝おうか」  申し出ると 「ならきのこを手でちぎっててくれ」 「私もナイフくらい使えるぞ?」 「きのこは手でちぎった方が香りが出る…ほら。嗅いでみろ」  彼は自らきのこをちぎり、私の顔の前に出す。ふわりと爽やかな香りがした。 「本当だ」 「ざっと洗ってからちぎれ。いしづきも綺麗だからそのまま使う」  スラッシュはカブとブロッコリーを一口サイズに切っている。それをレンジに入れ温める。鍋では玉ねぎを炒めていた。湯をたしコンソメブロックを放り込むと、それでもう美味しそうな香りがした。 「スープはオニオンコンソメにする。好きだろ?」 「ん」  きのこを夢中でむしっていて、短い返事になる。手にきのこのにおいが残らないか? そんなことを思いながら。そっと自分の指を嗅ぐ。 「においが残るの嫌か」 「あ、いや」  それを見られていたのか、スラッシュが言う。木べらを置いて私の手を取る。そして指を嗅いだ。 「こんくらいすぐ消える。ニンニクとかじゃねえんだ。洗えたならそこに置いといてくれ」 「ああ」  フライパンでホワイトソースを作るスラッシュ。手際の良さに惚れ惚れする。バターが溶けるいい香り。小麦粉を少しずつ加え混ぜる。豆乳で伸ばしてすぐにとろみのあるホワイトソースができてゆく。 「美味しそうだ」 「だろ? ほら味見だ」  木べらを指でなぞりソースをすくうと、スラッシュはそれを私に差し出した。少しギョッとしたが動揺を知られたくなくて、顔を寄せてそれを口にふくむ。 「……」  スラッシュの指先がほんの少し私の舌をさぐる。その感触に味見なんかできなかった。口から抜かれた指を追うと、彼は――そのまま自分の口に含み舐めた。眼帯側に立っていたから、瞳の表情はわからなかった。 「いい味だ」  スラッシュは言う。私は視線を泳がせた。  何を動揺するんだ、ただの味見。味見だ。  彼はホワイトソースの中にきのこと米を入れていた。私だけがオロオロしてどうする。いやそもそも味見を指でさせることないだろう、スラッシュの方がおかしい。またからかわれているのか? 私は。 「米を蒸らすから、お前は先に『食事』するか?」 「あっ? …ああ」  フライパンに蓋をして私に向き直り、私を見下ろしているスラッシュは普段と変わらない。私をからかったわけでもなさそうで、より訳がわからなくなった。 「じゃあ…おねがい…しようかな」  何とかそう言って、リビングに向かいソファに腰を下ろす。スラッシュもついてきていつものように身体を横たえる。もう慣れた所作だ。  彼の晒された首筋を見ると、うっとりしてしまう。私にとっては強い酒のようで食事中は酩酊してしまう。ただその力強さと美味さに満たされてしまう。  そうだ、指くらい。  私は彼の首筋に噛みついてるんだから。  身体を重ねながら、唇を這わせる。くすぐったかったのかスラッシュが身じろぎしたが、逃げようとした頸を捕まえる。 (いいにおい…)  スラッシュの匂い。甘さ。熱さ。  それだけに満たされたくて噛み付く。 「ん…」  優しく吸い上げる。  何度味わってもたまらない。  美味しい…  本当はリゾットなんてどうでもいい。これさえあればいい。私にはスラッシュさえいれば。  私はいい香りだろう?  お前が好きな金木犀…もっと嗅いで、求めて…  重い腕が私の背中に回る。掌がじわじわと蠢き腰へと下がってゆく。血に旨みが増した気がした。  肌が泡立つ。  甘い痺れが腰から広がる。彼の手が揉み揺れるリズムに、私の腰も揺れてしまう。食事に夢中になりながらも、スラッシュをもっと感じたいと思った。  掌はじっとりと腰を撫でさすってから、長い中指が意思を持って尾骶骨に伸びる。 (ああ…)  食欲とは別の欲が混じる。  区別がつかない。 (美味しい…、もっと…)  彼の熱い頸を撫でながら催促する。  掌が更に下へと滑ってゆく。  指が布越しに、尻の割れ目へと。 (もっと…スラッシュ…)  誘うように尻を上げた。  だが。 「待て…レオニス、飲み…過ぎだ…」  ハッとした。  口を離すと、喘ぐスラッシュが目の前にいた。私の掌からドッドッと彼の早い鼓動が伝わってきた。 「あ! …す、すまない! 夢中で……っ、!?」  身じろぎして、ギクリとする。 「腹減ってたのか、今日は嫌にがっついてんな」 「いや、そうじゃ…何でもない」  私は慌てて彼の身体から離れ、距離を取る。スラッシュは少し億劫そうに起き上がった。 「やっぱり、1日飛ばしたりするのはよくねえな、何でもリズムってのが大事だろ。ちゃんと毎日適量をだな」  スラッシュが何かを言っていたが、私はそれどころではなかった。 「わかった、明日からはちゃんと、する。……少し、部屋に戻って、気持ちを落ち着けてくるよ」  曖昧な返事をして立ち上がり、自室に急いだ。背後からスラッシュの「おい」という声がしたが、聞こえないふりをした。  驚いた。 「……何年振りだろう…」  寝室に逃げ込み、ベッドに座る。  股間の熱に触れる。 「……ア…」  布が擦れて、痛かった。ひくりと肩をすくめる。  下着の中で、雄が芯を持って立ち上がっていた。何百年と味わっていなかった感覚だ。弱り切っていた私は性欲に割く力などなかったから。  食欲と性欲を錯覚したのか?  スラッシュが私の尻を撫でたから…  いや、あれは事実だったんだろうか? 私の妄想だったのかもしれない。酩酊の中で都合よく、スラッシュにして欲しいことを考えただけかもしれない。  生々しい彼の掌の熱い感触が腰に残る。  尻に食い込む指の強さも―― 「あ、ダメ……」  ぶるりと内股が震えた。痺れが後頭部から足先まで走り抜ける。手で押さえつけ、止めようとしても止まらなかった。 (ああ…)  ビクッと体を震わす。  下着の中で達してしまった。じっとりと濡れた感触が広がり、何とも言えない気分になる。  罪悪感と共に、もったいないとも。  妄想の中で快感を味わうなら、もっとはっきりと思い浮かべればよかった。  スラッシュの手を。  私に味見をさせてくれた指。  彼の武骨な指が私の雄に絡みついて、握りしごいてくれるのを。更にもっと奥――彼自身に貫かれる痛みを味わいたいと…… (私は…)  スラッシュに欲情している。  これ以上を彼に望もうとしている。  なんて、強欲だ。

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