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第31話

 冬のメテオラはどうしても灰色の空が多い。  リムジンの窓から見える街並みも、冷たくくすんでいた。  スタッドレスタイヤで走る車は、いつもより速度が遅い。それにエドの運転でも、雪溜まりを踏んで少し揺れる。それでもスリップもせず信号できちんと止まる。  特に今年は大雪から始まった。きっと日照率も低いだろう。クレーター外に広がるプラント場の視察にもゆかないと。冬場の農作物は日照がなくとも育つような植物が多いが、それでも不備が起こらないか確かめておきたい。  だが、今日は「キューブ」だ。  スラッシュがクリスチャンに会いたいという。  確かに、彼ならアレッシのこともよく知っているだろう。マフィアは商売敵であるし、何某かの抗争もあると聞く。アポを取れば、二口返事でクリスチャンは招いてくれた。電話では数度連絡を取り合っていたが、彼に直に会うのはスラッシュを引き受けて以来だった。  後部座席の私の向かいには、そのスラッシュが座っている。仕立てたスーツの上にはシワのつきにくい合成ウールのコートを着て、本革の黒い手袋をはめている。一緒に眼帯も本革のオーダーメイドを仕立てた。肌にあたる方は柔らかな合成シルク。私が彼にプレゼントしたものだ。当初、彼と出会った時からすると様変わりだ。ゴージャスで、洗練されたたたずまいのガードた。私が満足しているだけで、本人はそれに価値を見出してはいないだろうが。  視線は警戒モードで、不審な車がいないかと注意深く外を見ている。赤い隻眼は鋭い。することのない私は彼をただ眺めていた。  私は知ってしまった。  スラッシュが、恋を知らないことを。  私が好きかと聞いた時も、お前が愛しいと告白した時も、スラッシュの目は驚くほど無垢だった。目を丸くして言葉を喉に詰まらせていた。戦闘には素早く反応するのに、恋や愛という言葉には思考が停止するようだった。  けれど確かに、その瞳には情が見えた。  私を求める、愛のようなものを。  ただ、なにかしらぬ逡巡も垣間見えた。彼が何にうろたえたのかはわからない。あれだけセックスが上手いから、さぞ恋愛事や駆け引きにも長けているんだろうと勝手に思っていたが、どうやら彼にとって恋愛とセックスは別のようだった。  我々は、恋愛をするにはお互いを知らなさすぎる。それに気づいた。肉体の相性が良ければ擬似的な恋愛もできるが、所詮感情は後手だ。  ならば、私が彼に恋を教えればいい。  彼の気を惹くために、趣向を凝らして。  そう思うとワクワクして、楽しくなった。  もちろん、スラッシュの中に私への愛が本当にあるかはわからない。肉欲が働くのだから悪からずは思っているだろうが、それが身体だけということもあり得る。  私も何百年と恋愛はしていないし、長けて熟知しているとは言えない。けれど、誠意は見せられるはずだ。嘘をつかずに、ありのままをぶつけることはできる。  スラッシュを愛そうと。  小さな芽を大切にして、ゆっくり水を与えてゆこう。  私には時間がある。たっぷりと。  目の前の厳つい男の中に、小さくてもいいから花を咲かせよう…そんなふうにひとり心に決めた。 「何だ、さっきからじっと見て」  私の視線にスラッシュが言う。警戒の邪魔だとでも言いたげな口調だった。 「あ……すまない、冬の装いもよく似合っているなと見惚れていただけで」  ハッとしてそうストレートに言うと、彼は顔ごと私を見てギョッとする。あまりにびっくりするので私まで驚いた。 「突然なんだ」 「何だと聞かれたから、考えていたことを言っただけだ」 「お前、今まではそんなこと…」 「すまない。仕事中に口説いた私が悪かったな、よくなかった」 「くど…、お前…俺をからかってんのか?」  スラッシュが眉間の皺を深める。そしてまた窓の外に目をやった。浅黒い肌のせいで頬を赤らめているかまではわからない。だが居心地が悪そうに肩を揺らすのはわかった。  彼が照れているのを感じると、私も少しバツが悪くなる。 「本当にそう思っただけだ」  小さく付け足す。  そうだった。偉そうに考えていたが。  私も恋愛は不得手だった。  キューブに到着すると、私はエドも車から下ろした。彼は恐縮したが、今後もスラッシュと行動を共にするなら情報は共有しておくべきだろう。  短い距離ではあるが公道を歩く間、スラッシュは私を腕の中に抱え込むようにした。私もその胸に身体を寄せる。その横をエドが隙を補うようについてくる。  店内に入ると、まだ開店前だからか音楽はかかっておらず、スタッフが掃除や開店準備をしていた。薄暗いのはいつも通りだった。スラッシュは店内でもまだ警戒をして私の横にぴったりとくっつき、手は腰にある。  ガードというよりは、過保護な恋人のようで少し気恥ずかしい。 「レオニス様」  いつもの黒服が私を迎えた。その男はクリスチャンの右腕のような存在だ。私に礼をした後、背後に立っているのがスラッシュだと気づいて二度見する。だがすぐにハッとして、店内のオフィスへと案内を始めた。  廊下を行き過ぎる時、スタッフ達は私も見たが、それよりやはりスラッシュに驚いているようだ。ただのバウンサーだった彼が今や私のガードだ。彼らからすると大出世ということになる。 「懐かしいか?」  スラッシュに訊ねたが、彼は鼻を鳴らして 「懐かしむほど長く居なかった。目覚めたら拐われていたしな」  と、あの時の騒動を皮肉たっぷりに言う。私は苦笑した。スラッシュの口ぶりからも恨みは感じなかった。  エドは物珍しさからあたりをキョロキョロしている。こういったところには来ないタイプであろうことは察しがつく。  黒服が奥のドアを開いた。  正面のモダンなデスクに座る赤毛の男がすぐさま立ち上がる。 「よーお! レオニスぅ」  大仰に両手を開き、いつもと変わらず少しねばっこい声。赤毛は今日も燃えるようにふわふわと逆立っていた。スーツは着ておらず艶のあるドレスシャツにガンメタルのベスト姿だ。  握手をして、彼は腕を振るとソファを示した。私の後ろからスラッシュとエドもついてくる。 「時間をとらせてすまない、クリスチャン」  私は長椅子の方に腰を下ろす。だがスラッシュもエドも座らず立ったままだった。  スラッシュはそんな2人には見向きもせず、斜向かいの1人がけに座る。 「かまわねぇさ。あ―…やっぱ見ねぇうちに、こりゃあ…えらく力を取り戻してんじゃねぇか!」  実に嬉しそうに言う。私の手を取り、撫でる。背後のスラッシュの気配がほんの少し殺気を放ったのがわかった。 (嫉妬でもしてくれているんだろうか、それともただの独占欲か)  内心苦笑しながら、そっとクリスチャンから手をひきとった。 「嬉しいぜェ、お前は街の顔なんだからよォ。やはり元気でいてもらわねぇとな。フン…やっぱりお前のトコでは良い子にしてるみたいだしなァ、コイツも」  そう言い、クリスチャンはスラッシュを見上げる。一緒に彼を見たが…それは冷酷な視線だった。赤い隻眼は露骨な侮蔑の色しかなくて私がギョッとするほどだった。 「人狼だったとはなァ、ふーん…手放したのが惜しいぜ」  そんなスラッシュにも、クリスチャンは何の物怖じもしない。薄笑いを浮かべて見ている。その言葉は本気だったろう。スラッシュはより目を細めて、睨め下ろしている。 「クリスチャン。今や彼は私には欠かせない存在だ。頼むから、私から奪わないでくれ」  クリスチャンは笑う。 「思っただけさ。飼い慣らしてるなら、やっぱレオニスが主人の方がいいんだろうよ、コイツもよォ。いいカッコしてキレーにしてもらって、可愛がられてるみたいだしなァ」 「クリスチャン」  少しきつく言う。これ以上スラッシュを逆撫でしてほしくはなかった。それがクリスチャン流の社交術だとしても。  クリスチャンは両手をあげて、降参した。  そして膝に肘をついて指を組むと言った。 「さ、何でも聞いてくれ。時は金なりだ」

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