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第6話
「今泉先生、もうすぐ予鈴ですよ」
「棗先生……」
気まずい空気をはさみで切られたお陰で風穴ができて呼吸ができる。こっそりと深呼吸すると気持ちが少しだけ落ち着いた。
棗に気づいた大翔がお辞儀をすると棗も会釈して三人の間に春の風がびゅうと吹き抜ける。温かさのなかにまだ冷たさが残っているような風で、肩を竦めた。
「そろそろ授業が始まるので」
「はい、こちらも長々と失礼しました。明日もよろしくお願いします」
大翔はもう一度頭を下げるとバンに乗り、エンジン音が遠ざかっていく。校舎に戻ろうとすると腕をそっと掴まれた。振り向くと棗が唇を尖らせている。
「さっきのパン屋の人は知り合い?」
「大学時代の友人です」
「そっか」
眼鏡の奥の瞳が細められ、ごくんと唾を飲み込んだ。疑うような目には自分の腐った想いすら映してしまいそうで、急かされるように口を開く。
「今夜、飲み会のあと大丈夫です」
「よかった。じゃあうちでお茶でもしませんか?」
「はい」
「楽しみにしていますね」
手のひらを返したように機嫌の戻った棗にほっと息を吐いた。他人の顔色を伺うのが癖になっていて、完全に機嫌を損ねる前に手を打つようにしている。
これで棗と付き合うのを了解したようなものだ。飲み会のあとに家に行ってなにもしないなんてことはない。
(これでいいんだよ)
大翔は結婚している。いまさらどうこうなる可能性もない。だったらいつまでも同じところに立っていても大翔が戻ってくることはない。
わかっているはずなのに喉の奥が締めつけられるように苦しくてまた息ができなくなった。
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