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第9話
パンを渡すときに手を握られたり、笑顔を向けられたり、挙句の果てには連絡先を書いたメモを渡そうとする生徒までいて(それはさすがに阻止した)こうも鈍いものかと呆れた。
昔から人の好意には鈍かったとはいえ、よく結婚まで辿り着けたものだ。それとも奥さんも自分と同じように押して押して押しまくって既成事実でもつくったのだろうか。
ずきりと胸の奥が痛むが笑顔を取り繕った。
「まぁそれは冗談だとして、パンは美味しいと思うよ」
何回か食べたことがあるが、クリームパンのカスタードの甘さは絶妙だし、焼きそばパンに至っては焼きそばがパンから溢れるほどボリューム満点だ。生徒たちからの評判もいい。大翔が来る前から売り切れていたほど絶大な支持を得ている。
「てか前まで配達してたの女の人だったよな? もしかして楠川のお母さん?」
「そうだ」
「昨日から休み取ってるの?」
「……まぁそんなところだ」
言葉を濁す大翔に疑問を持ちながらも深く突っ込まないことにした。どうせ自分にはなにもできないし、してやれることはない。
大翔は唇を閉ざして仏頂面になった。眉間に深い皺を刻むと初めて見た人はなにか怒らせてしまったのだろうかとヒヤヒヤするだろう。
だが長年の付き合いからわかる。大翔がなにかに悩んでいるときの顔だ。
「なんか悩みあんの?」
ぱっと大翔の表情が切り替わる。瞼が開かれて長い睫毛が揺れていた。食い入るように見ていると大翔は罰が悪そうに顔を逸らした。
「どうしてわかるんだ」
「そりゃ付き合い長いし」
未だに未練タラタラだと思われたくなくて語気を強めた。でもそれが余計に見栄を張っているように見せているかもしれない。
大翔といるとまた痛みが蘇り、付き合っていたころに時間が遡る。
ここが職場の高校だと忘れ、大学生で付き合っていた一番幸せだったときと重なる。その差の大きさが棘となって鋭く胸を刺した。
痛くて仕方がないのにその痛みを訴えることは許されない。どうしてこうも心は囚われてしまうのだろう。
「……夜、空いてる?」
「なんで」
「パンのことちょっと相談したくて」
奥さんに言えばいいだろ、という言葉を飲み込んだ。相談できないから自分に持ちかけたに違いない。大翔は昔から人に弱みを見せるのが苦手だった。
「たぶん平気」
「よかった。じゃあ連絡するよ。番号変わってない?」
「実は携帯水没させちゃって番号とか全部変わってる」
「やっぱおっちょこちょいな。お、最新機種じゃん」
「うっせ。別にいいだろ」
連絡先を交換して友だち欄に再び「楠川大翔」の名前が入る。水没させたのは嘘で大翔と別れたショックで携帯を叩き割ってしまったのだ。
(データと一緒にこの想いも消えてくれたらよかったのに)
初めての恋の色鮮やかな思い出は何年経っても色褪せてはくれないのだ。
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