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第16話

 手酷く抱かれた翌日は身体がダルい。けれど大翔と約束してしまった手前、行かないという選択肢はなく昼過ぎに店に向かった。  棗は家まで送ってくれると申し出てくれたが、バレるわけにはいかず電車で帰ると嘘を吐いた。  ランチの時間を過ぎても店の外にまで行列ができている。並んでいるのは若い女性ばかりだ。パンの香りに混じり香水や化粧品の匂いが風に乗ってくる。  もしかして生徒がいるかもしれないとバケットハットを目深に被ってマスクをした。それでもこの女性陣のなかに男がいるのは目立つのだろう。気にしないつもりでいても前に並んでいる二人組に何度も振り向かれて早々に心が折れた。  (仕方がない。今日は帰るか)  列を抜け歩き出すと、きゃあと黄色い歓声が聞こえて振り返った。出入り口に人だかりができている。誰か芸能人でも来ていたのだろうか。  興味本位で首を伸ばしてみるとエプロン姿の大翔が店先に出ていた。イートインの列に並んでいる客に一人ずつ紙コップを渡し「お待たせしてすいません」「熱中症に気をつけてください」と律儀に頭まで下げている。  紙コップを受け取った女たちはみんな顔を赤らめていた。  どうやらお目当ては大翔らしい。  昔からモテていたし、学生の頃にしていた本屋のバイト先にも押しかけてくる女は多かった。  結婚してもその魅力は衰えることがないらしい。  こんな注目されているなか、声をかけるわけにもいかない。それにもし生徒がいて変な噂でもされたら面倒だ。  全員に紙コップを配り終えた大翔が店内に戻ろうとするとき不覚にも目が合ってしまった。しまったと後ずさると大翔は唇の前に人差し指を当て、店の奥を指した。そっちに行けということだろうか。  店内に大翔が戻ると女たちは興奮冷めやらない様子で周りと話している。気づかれないように店と店の間の隙間みたいな通路に入ると裏側に通じているようだった。  数秒待っていると裏口が開き、大翔が出て来た。  「悪いな、混んでて」  「すげぇ人気だな」  「パンは美味しいよ。でもそれが伝わってるかどうかはわからないな」  困ったように眉を寄せる大翔からこの状況を喜んでいる節は感じられない。  大翔目当てならパンなんてオマケに近いだろう。アイドルの握手券のためにCDを買いまくるファンと同じ心理だ。  一生懸命に作っていると言っていた大翔の思いはどれだけの人に伝わっているのだろうか。  「これ、約束してたやつ」  手渡された紙袋はずしりと重い。クロワッサンやメロンパン、フルーツサンドなどどれも美味しそうだ。  「こんなにいいの?」  「もちろん。どれも俺が作ったやつ」  「ありがとう。大切に食べるよ」  大翔が端正込めて作ったものならしっかり味わいたい。そう返すと大翔の表情が固まってしまった。  「どうした?」  「別に。なんでもない」  頭を左右に振ったが、すぐにいつも通りの無表情に戻った。  「こんなに美味しそうなパンを作れると奥さん自慢だろうね」  自分から言ったくせにずきりと深く傷ついた。  なぜ傷に塩を塗り込む真似を辞められないのだろうか。それを堪えるように唇を引き結んだ。  「どうだろうな」  その曖昧な答えから奥さんが自慢にしている空気を感じた。そりゃそうだろ。もし自分だったら全世界に発信する自信がある。  「この店って奥さんの実家なんだよね? 奥さんも一緒?」  「あいつはいないよ」  「え、なんで?」  実家が有名なパン屋なら奥さんもパン職人になって、夫婦二人三脚で店を盛り立てようとするのではないか。そのための政略結婚だろう。  「あいつがパン職人にならないから、婿はパン職人がいいってことで俺に白羽の矢が当たったんだよ」  「なんだよ、それ」  つまりパンが作れるなら誰でもいいということではないか。だが同時に大翔が自分と奥さんの二股をかけていたわけではなかったことに胸を撫で下ろした。  やっぱり不誠実な男ではない。いまさら答え合わせをしても無意味なのに。   「なんだ。奥さん一目でも見ようと思ったんだけど」  「もうすぐ帰ってくるはずだけど」  「そっか。でもいつまでも人気者のおまえを独り占めするわけにいかないし、そろそろ帰るよ。これありがとな」  元来た細い道を戻っていると背中に視線を感じる。まだ大翔が見ている。情けない姿は見せたくないと背筋が勝手に伸びた。

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