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第19話

 「今泉先生って楠川大翔と友だちって本当?」  放課後の職員室、二学期最後の期末試験の採点をしていると野球部顧問の教師に声をかけられた。計算していた数字がすっぽりと抜け落ち、久しぶりに聞いた大翔の名前にどきりとする。  「そうです。大学時代の友人で」  「あの弱小校を甲子園の準決勝まで導いた天才バッターだよね?」  「はい?」  なんの話だと首を傾げるが、顧問は気にするようすもなく続けて口を開いた。  「彼一人が入部したことで野球部が一気に強くなったんだよ。捕手としても才能あってさ。リードも牽制も完璧なんだ!」  「楠川ってそんなにすごい選手だったんですか?」  初めて聞く話に前のめりになった。  「すごいなんてもんじゃないよ。球団からいくつもスカウトきてたのに全部蹴って大学に進学してさ。なのに大学では野球やらなくて謎の天才って言われてるんだよ」    野球はやっていたと聞いたことがあったが、まさか甲子園の土を踏んでいたほどすごい選手だとは知らなかった。  「それで楠川がどうかしました?」  「よかったらうちのコーチを引き受けてくれないかなと」  つまり天才バッターが突如として購買パンとして現れた。しかも煌の友人と知り、友人の頼みなら断りにくいだろうから誘って欲しいとのことらしい。  大翔とは半年ほど顔を合わせていない。購買部は避け、駐車場も見なくなった。会おうとしないようにすれば案外会わないものだ。  「どうでしょ。お店も忙しいみたいですし」  「それはわかってる。たまにでいいんだよ。選手の士気も上がるしさ。今泉先生も副顧問なんだからちょっとは協力してよ」  「そ、それは」  教員はみんな部活動の顧問をしなければいけない決まりがあり、副顧問という立場ならと野球部を引き受けた。  野球経験はないが、遠征に付き合ったり、合宿の宿の予約をしたり裏方に徹している。練習メニューや試合の指示をしているのは野球経験のある顧問だ。  顧問は同じ国語教師で色んな面で世話になっている。ここで断ったら印象が悪いだろう。人の意見に逆らわない性格が顔を出す。  「わかりました。とりあえず訊くだけですよ。向こうが断ったら諦めてください」  「ありがとう!」  にっこりと笑われてしまうと座りが悪くなる。連絡したくはないが仕方がない。  家に帰ってから携帯を睨みつける。なんて書こうか。それとも電話にしようか。  ダラダラ悩んでいると日付けを跨いでしまいそうだった。明日学校に行けば顧問に訊かれるのは目に見えている。  もう腹をくくるしかない。  《急で悪いんだけど、うちの野球部のコーチできる?》  これくらいでいいだろう。悩むと送れなくなりそうですぐに送信ボタンを押した。  数分とおかずに着信が鳴り、名前を確認すると大翔だった。  『野球部引き受けてもいいよ』  「店は大丈夫なのか?」  『もうすぐ冬休みになって配達の方は落ち着くしな。店の方はどうにかなるし』  「てかおまえが甲子園行ったって知らなかったんだけど」  『別に聞かれてないし』  それはそうだ。野球部の人みんなに「甲子園行ったの?」の訊く莫迦はいない。  「まぁいいや。じゃあ詳しいことはメッセージ送るよ」  『わかった』  話は終わりだと通話を切ろうとすると不自然な間が空いた。大翔の呼吸音だけが静寂な夜に響く。  不思議と痛みを感じなかった。再会したときはかさぶただった傷から血が流れていたが、さらに時間をかけて治ってきていたのだろう。  子どものとき遊んだ公園とか友だちの家の麦茶の味が違ったなと懐かしさに思いを馳せるのと同じ気持ちだ。郷愁に似ている。  ようやく自分のなかで一区切りができたのだろう。  だからこのまま生産性のない会話をする理由もない。早々に切ろうと口を開くと『あのさ』と大翔が言葉を挟んだ。  『今泉の彼氏って同じ学校の人?』  「そうだよ」  『そっか』  「それだけ?」  『いい人そうだな』  「それ前も言ってたぞ」  『本当に心から思うんだよ』  「なんだそれ」  お互い恋人と妻がいる。付き合っていたのなんて四年も前のことだ。そんな昔のことをいつまでも引きずっているわけにはいかない。そう思えるようになった。  「じゃあまた連絡するな」  大翔の返事を聞く前に通話を切った。仄かに温かい携帯の温度が大翔の体温に似ている気がして、そっとテーブルの上に置いた。

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