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第21話

 「はぁ〜」  「なにか悩んでる?」  向かいの席に座る棗は答案用紙から顔を上げた。  「生徒との距離感って難しいですね」  「付かず離れずだよ。高校生って多感な時期だから子ども扱いしたら捻くれるし、かといって大人ってわけでもないしさ。ほどほどだよ」  「それが難しいんすよ」  もう一度深い溜息を吐くと棗はちらりと周りをみてから携帯を見せてきた。  メールを見ろということだろう。  《今夜は一緒に帰れそう?》  《まだ成績つけ終わってないし、部活もあるので厳しいです》  《わかった。また今度ね》  棗は手早く帰る支度をして職員室を出て行った。職場恋愛は忙しい度合いがわかるので無理にごねられたり、我儘を言われたりしないから楽だ。  気を使わなければならない場面は多いけれど棗との交際は順調に進んでいる。  他の教員たちも帰っていき、職員室の明かりがどんどん絞られていく。  答案用紙から顔を上げると職員室に残っているのは自分だけだった。丸つけは未だに慣れず、毎回時間がかかってしまう。自分で問題を作っているはずなのに相変わらず要領が悪い。  「あ、よかった。今泉先生、まだいたんですね」  「どうかされましたか?」  高齢の守衛さんが職員室のドアから顔を覗かせた。放課後に生徒が居残っていないかを最終チェックをしてくれ、夜間の見回りをしてくれている。  「それが野球部の部室がまだ明るくて。さっき声かけたんですけど、なかなか帰らないんです」  「わかりました。俺も見てきます」  壁にかかっている時計を見ると七時を回ろうとしていた。七時には完全下校をしなければならない校則がある。丸つけに夢中で、鍵を返してもらっていないことにいまさら気がついた。  部室棟へ行くと野球部のところだけ明るい。  部室棟へと続く砂利道を歩いていると笑い声が聞こえた。どうやら話が弾んでしまっているらしい。学生の間だけできる友だちとの時間はとても尊いものだ。大人になってその貴重さがわかるが、だからといってルールを破っていいわけではない。  「てか煌ちゃん先生ってチョロいよね」  自分の名前が出て、全身に冷水を浴びせられたように固まった。この感覚は知っている。  あからさまに悪意の込められた声音は昔を想起させた。  『煌っていつも寺内のこと見てるよな』  遠回しな悪口。集団生活のなかでは必ず起きる蹴落とし合いの標的が教師であっても変わらないらしい。  「わかる。ありがとうございますって言えば満足そうにするし」  「副顧問って名前だけでいつもなにもしてないもんな」  確かにと数人から同調の声があがる。自分でもわかっていた。  (これは上に立つ者の宿命だよな)  振り返れば自分も教師の存在が面倒に思うときがあった。髪色が派手すぎる、制服を着崩すなと散々怒られても適当に謝って仲間内で笑っていた。  ファミレスで集まっては教師の悪口を言っていた。止めようと思えば止められたのに、グループから省かれるのが嫌で同調して笑っていた。  教師になってわかる。そうやって注意してくれる存在はとても貴重だってこと。大人になると誰もなにも言ってくれない。どうせ正そうとしても関係ないし、それだけの労力を他人に割きたくないのだ。  大人は子どもよりなんでもできるのではなく、なにもかも受け入れることに慣れてしまった存在なのだ。  「授業でもそうなのか?」  大翔の声にぴくりと背筋が伸びる。まさか大翔まで一緒にいるとは思わなかった。  「授業は別に普通だよな」  「あ、でもこの前の授業面白かった」  「もしかして芥川の父親が母親の妹とデキてたやつ?」  「そうそう! とんでもない環境で育ったからこそこういう繊細でどこか陰湿な空気のある作風なんだって言って」  それから授業で話した内容に変わり、次第に期末試験の結果が怖いと最初の話がどこかへ消えていった。  一つ息を吐いてからとんとガラス扉を叩いた。  「まだ残ってたのか。もう時間過ぎてるぞ」  「わ、やば。コーチ、煌ちゃん先生さようなら!」  部員たちはぺこぺこしながらエナメルバックを籠に押し込めて自転車で走り抜けていった。  「悪い。俺がつい話てたから」  「いいよ。それよりありがとな」  「なにが?」  「なんでもない」  わざと話を逸らせてくれたのだろう。これ以上自分の悪口が広められないように。  でもそれは都合の良いように解釈した結果かもしれない。  部室の鍵を閉めて守衛さんに渡して学校を出た。自然と大翔と並んで歩く。  「うちの野球部、甲子園いけるかな?」  「やる気はあるな。でも運もあるし」  できるか、できないかはっきり言わない辺りそこそこいい線はいくのだろうと勝手に解釈した。  並んで歩いているとしっくりくる。歩く歩幅、スピード、自分より少し高い位置にある肩が落ち着く。  胸の痛みはない。やはり懐かしさが上回っている。  はぁと息を吐くと白い息が夜空に吸い込まれていった。  「正直言うとさ、偶然おまえと再会したときすげぇ動揺した。でもいまはもうすっきりしてる」  好きだった気持ちがなくなったわけではない。たぶん形を変えたのだ。家族に向けるような情の籠もった好きという新しい形。  大翔は「えっ」と驚いてこちらに視線を向けた。  「なんかいまやっと吹っ切れた気がする」  「……本当に?」  「うん」  「そうか」  街灯の乏しい光に大翔の顔に影が入る。悲しんでいるように見えた。でも気のせいかもしれない。  大翔には奥さんがいる。自分には棗がいる。お互い好きだったのは昔の話で、いまはそれぞれ新しいストーリーが始まっているのだ。  「煌、俺は……っ」  ヘッドライトの光とともにクラクションが鳴った。振り返ると見慣れた黒の乗用車が路肩に停まる。  窓を開けると棗の姿があった。  「迎えに行くって連絡見てない?」  「すいません。わざわざありがとうございます」  「楠川さんも遅くまでお疲れ様です」  「いえ、俺は別に」  言い淀む大翔に首を傾げながらも迷わず助手席に乗り込んだ。  「じゃあ冬休みも練習よろしくな」  「あぁ」  車は滑らかに走り出して行く。サイドミラーで確認すると大翔の姿がどんどん小さくなっていった。  まるで好きだった気持ちから目を逸らすように、逃げ出すように車はスピードをあげる。  「タイミングばっちりだったね」  「あんな暗がりなのによく歩いてるのわかりましたね」  「なんとなく。煌くんがいる気がして」  ふっとやさしく笑ってくれる棗に胸のわだかまりが落ちていく。  信号が赤になって示し合わせたようにキスをした。甘酸っぱいやりとりに足の裏がぞわぞわする。

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