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第23話

 土曜の午後練習の中盤、突然の雷雨に見舞われ、練習は中止となった。  「早く片付けろ!」  「はい!」  部員たちに混ざってバッドやボールを片付けていくと体温がどんどん奪われていく。四月とはいえ、雨で濡れるとさすがに寒い。  部員たちも唇を真っ青にさせている。  「すぐに着替えて帰れよ。特に肩は冷やさないように!」  屋根のある部室棟で顧問が最後の号令をかけて、部員たちはさっさと着替えて帰宅の途についた。  「災難ですね」  「まさか雨が降るとは思わなかったな」  顧問は雨で濡れた身体を拭きながら困ったように笑った。煌も身体を温めようと腕を擦る。  「今泉先生、着替えはある?」  「はい。大丈夫です」  「じゃあ俺はこのまま帰るから戸締まりお願いね」  「お疲れ様でした」  顧問が職員室へと向かう背中を見送り、肩を窄めた。本当は着替えもタオルも持ってきていなかった。  (予報が一日晴れだったから油断した)  部室の鍵を閉めていると傘を差した大翔がやってきた。  「もしかして今日は中止か?」  「そう。いまさっきみんな帰った。ごめんな、せっかく来てくれたのに」  ちょうど大翔の来る時間帯と被り、連絡ができなかった。足元の悪いなかわざわざ来てくれたのに無駄足を踏ませてしまった。  「……くしゅ」  「おまえ、着替えは?」  「大丈夫」  「どうせ予報が晴れだからって持ってきてないだろ」  「そんなこと」  「そんなこと?」  大翔はにやりと目を細めた。付き合いが長い分、自分の性格をよく把握されている。  「あるけど」  「やっぱりな。そのままだと風邪引くからうちに来い」  「え、それはさすがに」  奥さんもいる家に行くのはいたたまれない。さすがに二人が仲睦まじくしている姿を見せつけられて平静でいられる自信がなかった。  及び腰になっていると大翔に腕を取られた。  「大丈夫。あいつはいないよ。うちの実家の方」  「別にそんなこと気にしてないし」  「うちは元々別居婚だから」  「……珍しいな」  「お互い干渉されたくないタイプだからな」  「そういうもんか?」  「そういうもんだよ」  大翔はどこか不機嫌そうな顔だ。夫婦のことは犬も食わないというし、あまり突っ込むのはよくないのだろう。  職員室に荷物を取りに行き、忘れ物の傘を借りて大翔の実家へ歩いて向かった。  練習に来てくれるときはいつも徒歩で来る。パンを運ぶからバンを汚すと衛生面的にアウトらしい。  時間が経つにつれ雨足はどんどん強くなってきた。冷たい雨は針のように刺してくる。時折吹く風は身体の芯を冷えさせ、がたがたと肩を震わせた。  「これ着てろ」  大翔が着ていたジャージを肩にかけてくれた。ふわりと香る匂いは昔のままだ。そんなことをまだ憶えてしまっている。落ち着いていたはずの胸の奥が騒ぎ始めてきた。  「いいよ。平気」  「そんな青白い顔して説得力ねぇよ。いいから着てろ」  「……あんがと」  ずり落ちないように合わせ目をぎゅっと握った。  「そういえば昔もこんなことあったな」  「そうだっけ?」  「おまえがバイトから帰りのとき、急に雨降ってさ  」  大翔と付き合い始めてすぐの頃、自分はかなり浮かれていた。初めての恋に夢中になりすぎて勉強やバイトも気もそぞろだった。  その日の夜は雨が降ると予報が出ていたのに傘を忘れていた。でも浮かれていたから傘なんてなくてもいいやと走って帰ったら見事に風邪を引いたのだ。  それ以来、天気予報はしっかりチェックするようにしている。  (あのときの大翔は怖かったな)  なんで傘を持って行かないんだ、朝のニュースは見なかったのかと散々詰られた。熱で気が弱っていた自分はめそめそと泣いてしまい、それを見た大翔が頭を撫でてくれた。  『悪い。心配だったからキツく言い過ぎた。ごめんな』  あのときの声音はとてもやさしく、自分の風邪一つで取り乱してしまう大翔が可愛くて愛おしかった。  「よくそんな昔のこと憶えてるな」  「忘れないよ。おまえと過ごした時間は」  「はっ……俺はもう忘れたね」  語気を強めると大翔は「そうだよな」となぜか納得してしまってなにも言えなかった。  (俺もおまえとのこと全部憶えてるよ)  日常の些細な会話すら鮮明に残っている。大翔が右足から靴下を履くことも、最初に味噌汁から食べることも、本を読んでいるときは邪魔されたくないことも。  全部、全部。自分の血肉となっていまを生かされている。  少し歩くと二階建ての家に着いた。築年数はかなりありそうなお世辞にも綺麗とは言えない外装だ。  でも花壇には花が植えられ、パンジーやガーデンシクラメンが冷たい雨にもめげずに咲いている。そこだけ切り取ったように色鮮やかだ。  「一階はパンの調理場。二階が住居な」  大翔は慣れた様子でガラス戸を開けて奥に入った。調理場は小麦粉の匂いで満たされている。  オーブンや大きなボウル、延べ棒などが見えてその使われている形跡から大翔がここでパンを作っている様子が浮かんだ。  (どんな顔で作ってるんだろう)  大翔が作っているところは見たことがない。太く長い指でパンをこねる姿を想像し、組み敷かれた自分と重なってしまった。蕩け切った顔で「可愛い」と言われると堪らなかったことを思い出し、下半身が疼いてしまう。  もぞもぞしていると顔面にタオルをぶつけられた。  「なにすんだよっ!」  「とりあえず身体拭け。風呂はいま溜めてるから」  「着替えだけでいいよ」  「風邪引かれたら後味悪いだろ」  嬉しい気遣いだが、元彼の家で裸になるのはなんとなく抵抗があった。ただでさえ変なことを思い出してしまいばつが悪い。  「俺は下で作業してるからゆっくり温まってこい」  無理やり浴室に押し込められて扉を閉められてしまった。洗濯機の上にはバスタオルと新品の下着、学生時代のジャージが置いてある。自分が抵抗するのを見透かしたようにすべてが用意されている。  人の好意を無碍にできない性格をよく知られている。仕方がないとびっしょりと濡れた服を脱いだ。  リノベーションされているらしく浴槽が足をゆったり伸ばせるほど広い。暖房もついていて頭上から温風が流れてくる。  身体の芯まで冷え切っていてシャワーを浴びると熱すぎるくらいだったが慣れてくると気持ちいい。  陳列しているシャンプーやボディソープが昔使っていたときとは違う。母親の愛用品だろうか。  (身なりに気にしないところは相変わらずだな)  風呂は心の洗濯というけれど、まさにそうだ。身体が温められると強張っていた気持ちが解れていく。  あれほど意識してしまっていたのに、お湯に流されてしまったのだろうか。

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