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第24話

 風呂から出ると大翔は一階の作業場でパン生地をこねていた。肩甲骨が規則正しいリズムで隆起している。後ろ姿でも魂を込めて作っているのがわかる。  あらぬことを思い出していたのに実際に目の当たりにするといやらしい考えは霧散していく。きっと誠実にパンと向き合っているのがわかるからだろう。  ただ顔を見てみたい。どんな表情をしているのかと前に回ろうとすると作業の手が止まった。  「出たか」  残念。振り返った大翔は見慣れた無表情になってしまっていた。  「ありがと。すっげぇ温まった」  「コーヒーでも飲むか」  「そうしようかな」  大翔はパン生地をボウルにいれて、ラップをかけた。  「なにしてんの?」  「少しこのままおいて発酵させんだよ。そうしたら生地が膨らんで柔らかくなる」  まるで自分みたいだと思った。大翔と離れている間もどんどん気持ちは膨らんでいくばかりで忘れられなかった。けれど発酵し過ぎて腐ってしまった好きという感情は家族愛に近いものに変わっている。  なくなった痛みは心臓の場所すら忘れてしまったように鼓動を感じられない。  ガラス戸を見ると雨はまだ降っている。雨雲に覆われているせいかまだ夕方なのに真っ暗だった。  二階の居住階はリビング、浴室、トイレと大翔と母親の部屋があるらしい。  壁紙やフローリングが張り替えられていて、階段には手すりもついている。  だがテーブルや食器は長年使われている形跡がある。こういうところが大翔らしい。  最新のものが好きで携帯もファッションもすぐころころ変える自分と違い、大翔は一度買ったものは最後まで丁寧に使うところがあった。  母親の教育の賜物なのだろう。  「そういえばお母さんは? いま出かけてるの?」  そう訊くと大翔の眉間に皺が刻まれ、コーヒーを一口啜った。  「入院してるんだ」  「どこか悪いの?」  「まぁ年だからな。いろいろあるさ」  はっきり言わない辺り触れられたくないのだろう。確かにこの年になると親の話はデリケートだ。  「だから配達が大翔に変わったのか」  「そうだな」  「一人で作って配達して大変じゃない?」  「もう慣れたよ」  子どものときから手伝ってきているから身体に刷り込まれているのだろう。でもそれは母親の手伝いの範疇で、店主がいないいま、苦労している部分も多いだろう。それなのに野球部のコーチもやってこんを詰め過ぎている。  大翔の横顔には疲労の色が滲んでいた。  (それなのに奥さんが手伝っている様子はないし)  この家には奥さんのものがない。女性ものの化粧品はあるが、どれもドラッグストアで買えるプチプラのものだ。あの派手な見た目の奥さんが使っているイメージはない。  「奥さんはここに来たりしないの?」  「結婚の挨拶に一度だけ来たな」  「それだけ?」  「うちは割と淡白なんだ」  うちは、という自分を枠の外に弾かれたような言葉にぴりっとこめかみが反応した。きっぱりと境界線を引かれた疎外感。  でも。  有名パン屋の一人娘なのにパン職人ではないし、旦那の店も手伝わない。奥さんは大翔を支える気があるのだろうか。  「奥さんのどこを好きになったんだ?」  「なんだよ急に」  「いいから答えろよ」  じっと睨みつけると大翔は観念したように小さく息を吐いた。  「気が強いところかな」  「それって欠点じゃない?」  「あそこまではっきりしてるといっそ清々しいよ」  「そういうもん?」  あまり好きになれそうなタイプではない。清々しくなるほど気が強いとはそれだけ我を通すということだ。きっと大翔は我慢して譲っていることも多いのだろう。  「おまえはどうなの?」  大翔の目が鋭く細められる。値踏みされているような気がしてごくりと唾を飲んだ。  「穏やかなところかな」  「うちとは正反対だな」  「そうだね」  なにが可笑しいのか二人で笑った。なんだか白々しい笑い声な気がしてしまう。  「ねぇ、おまえの部屋見てもいい?」  「汚いぞ」  「昔から掃除は絶対しなかったよな」  「男が水仕事をやるのはカッコ悪いと思ってたから」  「なにそれ、初めて聞いた」  大翔は罰が悪そうに頬を搔いた。どうやら家にいるせいで気持ちが緩んでうっかりこぼしてしまったらしい。  「こんなこと知ってダサいだろ」  「言ってくれたら俺だっていやいややらなかったのに」  「嫌だったのか?」  「不公平だとは思ってた。ご飯は作ってくれるけど後片付けはしないし、靴下は洗濯機入れないし」  「言ってくれたら直したよ」  「本当?」  問い詰めるように身を乗り出すと大翔は顎に皺を寄せた。どうやら自信はないようだ。そうやって嘘を吐けないところは全然変わっていない。  「いいよ、もう昔のことだ。それより部屋行こうぜ」  「そうだな」  大翔の部屋は野球少年の部屋のままだった。壁に貼られている野球選手のポスターは色褪せ、何年前のかもわからないスポーツ雑誌、バッドやグローブが置いてある。だがやはり目を引いたのは壁一面ある本だ。  「本すげぇな」  「古本も多いけどな。捨てられない性分だからどんどん増えていく」  大翔との共通点であるのは本好きのところだ。出会った要因でもある。  大翔は本棚から一冊の本を取り出した。  「これ、憶えてるか?」  「懐かしいな」  大翔に声をかけるキッカケを作ってくれた思い入れのある本。『咲くひまわりは涙を吸う』だ。  「夏に映画やるらしい」  「生徒たちも話題にしてたな。なんとかっていうアイドルグループの子が出るって」  「……一緒に行かないか?」  誘われるとは思ってもおらず、じっと大翔の顔を見返した。黒目がちな目は真剣で冗談やからかいが含まれていない。  「奥さんと行かないの?」  「映画は興味ないと思う」  「デートとかどうしてんだよ」  「行くのか。行かないのか」  話を逸らさせてももらえない。少し背の高い大翔を見上げると部屋の電球が視界のはしに映る。じーじーと電球の音が急き立てるように響いた。  「俺と行ってどうするの」  「友だちと映画を行くくらい普通だろ」  「……友だち?」  いつのまに俺たちは友だちに落ち着いたのだ。  ノンケの大翔とゲイの煌では恋人と別れたときの重さが違う。異性が好きなら出会いは星の数だけあるから、ダメージが少ない。  けれど自分は違う。そもそもゲイは出会いがなく、好みの同性と付き合えるなんて夢のまた夢だ。どこかで妥協をしたり我慢する部分は多い。  性欲を満たすためだけに誰彼構わず寝ることも厭わないのだ。  大翔を失ったと同時に自分の一部も欠落させられた。  それがようやく元に戻ろうとしてくれている。それなのに友人? 映画に行きたい? なんて頭がお花畑なんだ。  あれほどの喪失感をまた味わえというのか。仕事上、仕方がなく大翔と付き合っているだけでこれ以上の関係なんて無理だ。  好きで、好きで、心から本当に好きだった。生涯を共にしたいと願った。それなのに大翔に別れを切りだされ絶望の淵に落とされた気持ちがわかるのか。  「……無理に決まってんだろ」  「どうして?」  「おまえ、俺をどういう風に振ったか忘れたわけじゃねぇだろ」  傷がズキズキと痛みだす。やはり痛みはなくなっていない。真綿で覆いつくしていただけで、ひょんなはずみで壊れてしまう。  呪いのように刻まれた痛みは消えてはくれない。  「でも吹っ切れたって言ってただろ」  「だからってお友だち付き合いができるほど器用じゃないんだよ」  吹っ切れた。自分でもそう思っている。  でもこうやって顔を合わせて昔話をしたり、並んで歩いているだけで気持ちが一番幸せな時期に引っ張られてしまうのだ。  そのたびに苦しい。もう絶対に手が入らないのにちょろちょろと視界に入ってこようとする無神経な大翔に苛立つ。  蝶を捕まえようとする子どものように無邪気に手を伸ばせないのだ。  「……悪い。それは軽率だった」  「わかったなら反省しろ」  「友だち、は都合良すぎたな」  大翔の顔に影が入る。どこか自分を追い詰めているような表情は初めて見るものだ。  (おまえは結婚して幸せじゃないの?)  大翔から幸せなオーラを感じない。新婚ならもっとウキウキしているのではないか。  大翔は大翔なりに悩んでいるのかもしれないが、知ったこっちゃない。もう別れた男にやさしくする必要なんてない。傷つくのが目に見えている。  けれど昔愛した男が弱っているのを見るのも辛かった。こっちが悔しくなるほど幸せでいてくれないと別れた意味がなくなってしまう。  はぁとわざとらしく溜息を吐いて、髪をくしゃりとかきあげた。  「いいよ。でもこれっきりだ」  「いいのか?」  「男に二言はねぇよ」  「ありがとう」  唇のはしをちょっとだけ上げる不器用な笑顔に胸の奥がきゅんとしてしまった。

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