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第28話

 期末試験と同時進行で野球部の夏の大会の予選が始まる。部員たちは試験勉強や練習にと大変そうだ。  できるだけ尽くそうと差し入れや特別講習をしたりと慌ただしかったが、それが功をなしたのか準決勝まで進むことができた。  歴史的快挙に学校は大いに盛り上がった。けれど三年生は引退してしまうので嬉しさと寂しさが混じっていて複雑だ。  あと一年あれば、と思う部員もいただろう。涙を流しグラウンドを見つめる横顔が一回りも二回りも大人にさせていた。  そんな激闘の七月を過ごし、夏休みに入った途端空気の抜けた風船のようにしおしおになっている。  学生は夏休みでも教師は通常通りに仕事がある。雑用をこなし部活の様子を見に行っていた。  グランドに様子を見に行くと灼熱の日差しのなか、部員たちは日陰で筋トレをしている。その様子を見守っていた大翔が耳打ちしてきた。  「映画、来週でもいいか」  「もう公開したんだっけ」  「大人になると一日があっという間に過ぎるよな」  大翔はフェイスタオルで汗を拭った。額に浮かぶ汗が陽光に反射してきらりと光る。  「いいよ。でも場所は千葉でもいい?」  「生徒に会うかもしれないから?」  「そう。さすがにマズいだろ」  友人だと周知されているが、あまり仲良くしすぎていても不自然だろう。  ふと棗の顔が浮かぶ。身体を巡る血液がさっと足元に落ちたような恐怖があったが、頭を振って追いだした。  (これが最後なんだ。棗先生には内緒にしておけば大丈夫だろ)  あの日を境に棗との関係はぎくしゃくしている。正確には自分が避けていた。このまま自然消滅ができたらいいが、嫌でも学校で顔を合わせる。なにより合鍵を返してもらわないと落ち着かない。  大会や期末試験、オープンキャンパスなどやることが多く、棗とのことをつい後回しにしていた。  「少し痩せたか?」  「そうかな」  「顔色も悪い。まだ疲れが残っているのか」  「そんなことはないけど」  確かに食欲が落ちていた。元々食べるほうではないし、自炊もできないのでゼリーやうどんといったのど越しがいいものばかり食べている。  「教師でも身体が資本だろ」  「暑いと食欲なくなるんだよ」  「ちょっと待ってろ」  大翔はベンチに置いてあったランチバックを下げて戻ってきた。  「俺が作った昼飯。やるよ」  「どんどん主婦力上がってるな」  「一人だからな」  「でもこれ貰ったらおまえの分がなくなるだろ」  「別にコンビニで買えばいいし」  「でも」  「いいから食っとけ」  押しつけられてしまい受け取るしかなかった。紺色のランチバックは中に保冷剤が入っているのかひんやりと冷たい。  「ありがと」  お礼を言うと大翔は眉間に皺を寄せた。珍しく照れているらしい。相変わらず不器用だなと内心笑っていると沙良の顔を思い出した。  若い男と腕を組んでホテルに入っていった。大翔は知っているのだろうか。でも口を出すのも踏み込み過ぎている。  ぐるぐる悩んでいると大翔に顔を覗かれた。  「やっぱり具合い悪いのか?」  「そんなことないけど」  「そうか。あいつらも休憩させるか。おーい!」  大翔は部員たちの元へ行き、休憩を促していたのでじゃあなと手を振って職員室に向かった。  職員室の小窓から棗の姿が見える。最悪なことに誰もいない。咄嗟にランチバックを後ろ手に隠すと棗が顔を上げた。  「そんなに警戒しないでよ」  「するに決まってるでしょ。あんなことしておいて」  「信用なくしてしまったね」  「自業自得ですよ」  ふんと鼻を鳴らすと棗は困ったね、と笑った。なにがそんなに可笑しいのだ。こちとらしばらく座れなかったし、トイレに行くのも恐怖だったというのに。  まだ書類仕事が残っている。大翔の弁当をつまみながらやりたかったが、二人きりになるのが怖い。  さすがにこの前みたいな仕打ちはしないだろうが、できるならもう二度と関わりたくなかった。  それに棗の実家に行く話も決着がついていない。辞めるなら早めに校長に伝えなければならないが、ギリギリまで粘りたかった。  (でもKだと言い触らされたら)  なによりもそれが怖い。でもかといって棗の思い通りに動きたくもない。  どっちつかずのまま逃げ回ってばかりだ。  「今泉先生」  振り返るとなぜか大翔が立っていた。  「部員の一人が具合い悪いみたいです。いま顧問の先生がついてて」  「わかりました。すぐ行きます。じゃあ棗先生、また」  急いでグラウンドへ向かうと部員たちはさっきと同じように筋トレをしている。顧問の姿もなく、倒れている部員もいなさそうだ。  「あれ、具合い悪い子は」  「嘘吐いた。ごめん」  「なんだよ、てっきり熱中症かと思って」  救急車を呼んでから親御さんに連絡して、と算段を考えていた緊張感が一気に抜けた。  へなへなとその場に座り込むと大翔は屈んで目線の高さを合わせてくれる。  「うまくいってないのか?」  「なにが」  「恋人と」  「……そうだね。むこうの本性が出てきたというか弱みを握られているというか」    なにを言っているんだ。自分を振った男に恋愛相談なんて莫迦げている。  段々申し訳なくなり、頭を掻いた。  「わり。いまのなし」  「本性って?」  聞き流すつもりはないらしい。でもだからといって洗いざらい話せるわけでもなく、口を噤んだ。  「まぁ二人のこと俺が聞く権利ないよな」  立ち上がると背を向けられてしまい、咄嗟に手を伸ばした。だが手は虚空を掴んできつくこぶしを握るに留めた。  「やっぱ今日映画行くか」  「なんだよ急に」  「いいだろ。レイトショーの方が人少ないから集中できるし」  不器用な笑顔にまた胸がきゅんとしてしまう。  明確な言葉はないけれど気遣ってくれている。そうやってやさしくされるとダメになってしまう。頼ってしまいたくなる。  泣き言を言いそうな口を噤んで、笑顔を向けた。  「それいいかも」  「じゃあ弁当食って元気だせよ。あと箸いれてないこと忘れてたからこれな」  ぽんと渡された割り箸は温かい。  大翔はこちらを振り返りもせずグラウンドへ行ってしまった。

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