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第30話

 二学期に入っても、殺人的な暑さは続いている。廊下以外クーラーがついているとはいえ、大人数がいる教室は暑い。それは職員室でも例外ではなく、汗ばんだ手でプリントを触ると途端にしわくちゃになった。  昔はわら半紙だったのにいつのまに普通紙が支流になったのだろうか。汗がつかないよう手のひらをシャツで拭っていると購買部のおばちゃんが血相を変えて飛び込んできた。  「よかった、今泉先生!」  「どうかしたんですか?」  「楠川パンさんが来れないって急に電話がきて」  うろたえそうになり奥歯を噛んだ。自分までパニックを起こすわけにはいかない。  「なにか理由は聞きましたか?」  「こっちが話す前に切られちゃったの。しばらく配送できませんって」  「そうですか」  大翔になにかあったのだろうかと気になったがそれよりも生徒たちの昼食事情の方が大事だ。高校の周辺にコンビニはあるが、通学時以外に入るのは禁止している。  購買部にはお菓子しかなく、さすがにそれだけでは空腹のたしにならない。ただの公立校なので学食なんてものもない。  「代わりにbonheurさんが来るって言われたんだけど」  おばちゃんが言葉を濁したので察した。値段が高いのだ。  店舗で売っているものは一個三百円から五百円する。それをここまで持ってくるガソリン代や手間賃を考えると一割増しになるかもしれない。  それを学生が何個も買うのは無理な話だ。  「でも今日は仕方がないですね。来てもらえるなら来てもらいましょう。生徒たちには事前に話しておきます」  「お願いね」  おばちゃんは足早に戻って行った。  職員室のホワイトボードに楠川パンが来れなくなったこと、代わりにbonheurが来るから値段が高くなるので生徒に周知して欲しいと書いた。  こうしておけば職員室に戻ってきた他の教員たちも気づいてくれる。  教頭に事情を説明して、今日限りはコンビニに行く許可が下りてほっと胸を撫で下ろした。  ひと段落がついたところで大翔にメッセージを送った。  《なにかあったのか?》  《お袋が今朝亡くなった。悪いな、パンの配送できなくて》  《こっちは大丈夫。御愁傷様です》  心臓に氷を当ててられたように竦みあがった。たった一人の肉親が死んでしまった大翔はどれほどの悲しみを抱えているのだろうか。覚悟はしている、と言っても実際になるのと想像では違うだろう。  煌には姉がいる。母親が死んだとしてもまだ家族がいるから悲しみを分かち合える。  だが大翔にも沙良がいる。きっといまごろ二人で病院に向かっているのかもしれない。悲しみにくれる大翔を支えてくれているかもしれない。例え浮気をして愛情がなくても、永遠を誓った間柄なのだからそれくらいの情は見せてくれるだろう。  大翔が辛いとき、支えてあげられるのは自分ではない。  書類の手続きも家族をなくした痛みを分かち合うことも他人である煌にはその権利がないのだ。

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