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第31話
昼休みになり、おばちゃんは購買部に来る生徒の相手をしなければならず、パンを運ぶ手伝いをするはめになった。最初に話を持ちかけられたときから薄々感じていたことなので仕方がない。
駐車場に行くとちょうど見慣れた白いバンが駐車をするところだった。窓越しに会釈をすると運転席にいたのは沙良だったので驚いた。
沙良は転がるように降りると頭を下げた。
「すいません。遅くなってしまって」
「時間通りですよ」
「恥ずかしながらこういうこと初めてで。えっとどこに運べばいいんですか?」
「こっちです」
重たい番重を女性一人で運ばせるわけにはいかず、バンから番重を下ろし台車に降ろすと「私がやります」と横から手が伸びてきた。
その爪はネイルがされておらず、短く切ったばかりのように鋭く見えた。髪を後ろに束ね、白いシャツとジーパンとラフな格好も沙良には似合っていない。急あつらえなのが目に見えてわかる。
持っているものから地味めの服を選んだのだろうが豊満な胸が隠せていない。
案の定、沙良が長机の前に立つと男子生徒がピラニアのように群がっていた。
だが掲示された値段を見てしんと静かになる。
「やっぱ学生には高いですよね」
沙良がしゅんと肩を落としてみせると、良心が痛むのかそれとも男の見栄なのかみんな一つは買って行った。
そんな男の浅ましい行動に女生徒たちは白い目で見ている。
パンの値段を見てコンビニに流れる生徒が多かった。いつもは十分も経たずに売り切れてしまうのに長机の前は閑古鳥が鳴いている。
沙良は落ち着かなさそうにゆらゆらと身体を左右に揺らした。予想に反してパンが売れなかったので嫌な気持ちにさせてしまったのだろうか。
でもどう考えても高校生に一個三百円のパンは売れるわけがない。
これだけ暇なら沙良だけでも問題ないだろうが、沙良に群がる男子生徒を蹴散らしていたら帰るタイミングを逃してしまった。
生徒もおらず、二人きりにされると気まずい。購買部のおばちゃんは腰が痛いと言って奥に引っ込んでしまった。
「いつもこんな感じですか?」
「大人気ですよ」
「ですよね。あの人の作るパンは安くて美味しいから」
きれいにマスカラが塗られた睫毛を細める沙良の表情は春の日差しのように柔らかい。浮気をしているくらいだからもっと気取った女かと思っていたが、想像と違うギャップにどういう反応すればいいのかわからない。大翔も気が強いと評価していたのに見る影もなかった。
「あの、もしかして今泉さんですか?」
「そうですけど」
「やっぱり。一度お店にも来てくださいましたよね」
「あーはい」
一瞬すれ違っただけだったが沙良は憶えていたらしい。
「楠川からよく今泉さんの話は聞くんですよ。仲の良い友人だと」
「はぁ」
変なこと言ってないだろうなと内心どぎまぎした。
「じゃああの人のプロポーズの話知ってます?」
「なんですかそれ」
煌が身を乗り出すと沙良は屈託なく笑った。
「『俺には生涯愛すると決めた人がいる。それでもよかったら結婚して欲しい』ですよ」
大翔らしい飾らない言葉だ。愛する人は、自分のことを指しているのだろうか。
反応に困っていると沙良はいらずらっこのような顔になる。
「普通そんなこと言ったら断るじゃないですか。でもその裏表のないところがいいなと思ったんです」
「楠川らしいですね」
「利害が一致してただけなので恋愛感情のない仮面夫婦なんですけどね」
あんた浮気してるもんな、と内心毒吐いたが顔には出さないようにした。
「でもそれももうすぐお終いです」
「……どうしてですか」
「楠川のお義母さんに孫を抱っこさせてあげられなかったから」
鼓膜の奥がきーんと鳴った。次第に音が大きくなると吐き気がしてきて唾と一緒に飲み込んだ。
「私が赤ちゃんできにくい体質だったみたいで……楠川には可哀想なことをしました」
「でもあなたはよかったんじゃないですか。好きでもない男の子どもを産まずに済んで」
瞬間沙良の目の色が変わった。瞳の奥に牙を隠している。その目が「あんたになにがわかるのよ」と言いたげで、いままで猫をかぶっていたのかと察した。
「三年も一緒にいれば情はあります」
「別居していても?」
「それは楠川が望んだことです。お義母さんを一人にできないからって」
「楠川はお母さんをとても大切にしていますもんね」
「はい。今頃悲しんでいるかもしれません」
天井を見上げた沙良の横顔を見た。
初めて見かけたときとはメイクも服も違う。今日このときのためにパン屋らしい格好に整えてきたのは明白だった。
大翔の顔に泥を塗らないためだろう。だから他の人に任せず沙良本人が来たのだ。
夫婦のことはやはり夫婦にしかわからない。
結局はこの人は浮気をしているから庇うところはない。けれどそれに至った経緯はなんとなく自分に似ている気がする。
「一緒に病院に行ってあげないんですか」
「私が行ってもなにもできません。孫を抱っこさせてあげるという約束だったのにそれができなかったし、お義母さんに合わせる顔がないです」
細い肩を震わせる沙良は泣いているのかと思った。けれど大きな瞳に涙の膜が張っているだけで決して落ちない。
そのプライドの高いところがいいなと思えた。
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