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第36話
久しぶりの休日に気分転換で都心に出かけた。アパレルショップや電化製品、薬局などで必要なものを買い揃えると両肩が痺れるほどの量になってしまった。
疲労で金銭感覚が麻痺しているのかもしれない。考えるのが億劫で目についたものを片っ端からカゴに入れていた。
ホームで電車を待っている間、胃がキリキリと痛んだ。そういえば昼も食べそびれた。でも不思議と空腹は感じない。
「すごい荷物だな」
「……楠川、なんでここに?」
上り電車から降りてきた大翔に驚いた。見慣れない黒いスーツを着ている。風にのって線香の匂いが鼻を掠めた。
「お袋の四十九日。ちょっと遅くなったけどやろうかなと思って」
「そっか。色々大変だったもんな」
「そうだな」
そんな一言で片付けられる程度のものではないのはわかっている。でもいい言葉が見つからない。
大翔は隣の椅子に腰を下ろした。
「なんか会うの久しぶりだね」
「おまえ全然部活に顔出さないもんな」
「受験生は大変なんだよ」
「わかってる。おまえもお疲れ様」
大翔の声に覇気がない。やはりまだ落ち込んでいるのだろう。
なにか元気づけられるようなこと、とぐるぐる考えても咄嗟に気の利いたことが思い浮かばない。
「また痩せたか?」
「コンビニ弁当ばっかで飽きちゃってまともに食ってないかも」
「しっかりしろよ」
頰を撫でられて全身の毛穴がぞわりとした。
緩みそうになる顔を隠すようにマフラーに顔を埋めた。
「わかってるよ」
「また弁当作ってやろうか?」
「え」
甘い誘惑に頷きそうになった。でも大翔とはもう個人的に付き合わないと決めたのだ。弁当を作ってもらう理由はない。
その約束を思い出したのか大翔は手で顔を覆った。
「いまのなし。こういうとこがダメなんだよな」
「……そんなことないよ」
「いやでももう関わりたくないって言われたのにさ……悪い」
まさか謝ってくるとは思わず吹き出してしまった。そんな姿初めて見る。
「楠川らしくないな」
「まぁ俺も成長してるんだよ」
「そうだね。一人暮らし立派にできてるし」
「掃除、洗濯なんでもできるぜ」
「頼もしいなぁ」
そう揶揄すると笑ってくれた。大翔と話すのはやっぱり楽しい。
根底に大翔への想いがあるからだけでなく、笑いのツボや会話のタイミング、声の抑揚などがやはりこの人だと思わせてくれる魅力がある。
精神的に参っているせいだろう。心のよりどころが欲しい。なにかに縋りつきたい。
考えるよりも先に口が開いた。
「やっぱり関わるのなしって言ったのなしにしてもいい?」
「どうしたんだよ、急に」
「楠川といると楽しいんだよ」
本音をこぼすと大翔は初めて本屋で声をかけたときと同じ顔になった。
「……わかるよ。俺も今泉といるの楽しいよ」
「じゃあ友だちで」
「わかってる。友だちな」
何度も友だちと確認し合うのもおかしかった。二人でひとしきり笑い合うとちょうど電車が来た。
「友だち記念にうちで飯食って行くか?」
「いいの?」
「もちろん。でも」
両手で抱えきれないほどの買い物袋を見て大翔は首を傾げた。この荷物を持って大翔の家に行くのは大変だ。ここからなら自分の家の方が近い。
「俺がそっちに行こうか」
「一旦置いてから行くよ」
「わかった。じゃあ後でな」
さっと降りて大翔に手を振った。またこのあとも会えるという高揚感から足取りが軽い。
だが玄関の鍵を差し込んだときピンと糸を張りつめた緊張感が走った。鍵は施錠されている。小窓も閉まっている。けれど部屋のなかからおどろおどろしい気配を感じるのはなぜだろうか。
そっと扉を開けて中を覗くが人の気配はもちろんない。電気を点けると1Kの部屋はすぐに明るくなる。
「気のせい、かな」
買ってきた洗剤や歯磨き粉をしまおうとラックを開けるとぞっとした。
ストックがなくなっていたはずなのにすべて揃っている。きちんと整頓され、あたかも最初からここにあったかのように並べられていた。
「なんだこれ……どいうことだ?」
部屋の中をよく見ると床に埃がない。帰ってから掃除機をかけようと思っていたのにワックスをかけられたようにフローリングが艶を帯びている。
ベランダに干した服がソファの上に綺麗に畳まれていた。
「なんだこれ。母ちゃんかな」
携帯を確認するが母親からのメッセージはない。無断で来るような人ではないが、念為確認すると「今日は仕事」と返事がきた。
棗には鍵を返してもらっている。職場で顔を合わせることがあるが担当科目も学年も違うから関わることはない。それに脅しが効いているのか向こうも避けている節があった。
じゃあ誰だ。
血液が足元に落ちていく。体温が一気に下がり、目眩がした。
一旦落ち着こうと冷房庫を開けると固まった。
『おかえりなさい。栄養あるもの食べて元気だしてください』とメモが貼られたタッパーがいくつもあった。
中は作り置きした肉じゃがや鳥の手羽先、ナムル、ポテトサラダと自分の好物ばかりだ。
さっと血の気が引いた。次々湧き起こる出来事に怖くなり、靴も履かずに外に飛び出した。
無我夢中で入り、大翔の家まで来た。寒い夕方というのに身体は熱い。顎に溜まる汗を拭って扉を叩いた。
「遅かったな。いま連絡しようと思ってたんだが」
「誰か部屋に入ったみたいだ!」
「どういうことだ?」
「洗剤があって……洗濯物が畳まれてた。ご飯がたくさん」
「落ち着け。とりあえず入れ」
大翔は周りを確認してから中に入れてくれた。コーヒーを淹れて貰い一口飲むと気持ちが落ち着いてくる。
「大丈夫か」
「うん、悪い。もう平気」
「部屋に誰かいたのか?」
「誰もいなかった。でも誰かいた形跡があって」
部屋であったことを話すと大翔は眉を寄せた。
「それは恋人がやっててくれたんじゃないのか?」
「……もう別れてる」
「は?」
さらに眉間の皺を濃くさせた。その目は疑問に変わる。
「じゃあなんでそんなことが起こるんだ?」
「わからないから怖いんじゃないか!」
がたがたと肩を震わせると大翔が大きな手で背中を擦ってくれた。まるで子どもを落ち着かせるようなやさしい手つきにほっとする。
「最近誰かに付きまとわれたりとかは」
「なかったと思うけど」
「おまえ結構ぼんやりしてるところあるから気づいてないだけかもしれないぞ」
「失礼だな、それ」
「でも真面目な話、ストーカーかもしれない。警察に相談に行こう」
ストーカーという単語に顔を上げた。
まさか、そんなわけない。だって鍵は返してもらった。複製できない特殊な鍵を使っているので、スペアを持っている可能性は低いはず。
(でももし想像通りなら大事になる)
受験が目前に迫っているなか、生徒たちを不安にさせたくない。
「いや、いいよ。大丈夫」
「大丈夫っておまえ」
呆れた声を出した大翔の表情は驚きに満ちている。
「犯人に心当たりがあるのか」
「……確信はないんだけど」
大翔は思案顔で俯いてしまった。
(もし棗なら下手に刺激しない方がいい)
相手は前例があるのだ。なにをするかわからない。地の果てまで追いかけてくるかもしれないが、だからといって生徒たちを放って逃げられない。その性格もよくわかっての行動だろう。
「わかった。ならしばらくここにいろ」
「おまえに迷惑かけられないよ」
「じゃあどこに住むんだよ。まさか部屋に戻るのか」
「ホテルとか借りて」
「それじゃ身も金ももたないだろ。うちは部屋も空いてるから大丈夫だ」
「でも」
「気にするなよ。友だちだろ」
にかっと爽やかに笑ってくれる顔が懐かしかった。そうだ。俺が告白したときも大翔はそうやって笑ってくれたのだ。
『なんだ、おまえゲイだったの。言ってくれよ。俺とおまえの仲じゃん』と言われたときは飛び上がりそうなくらい嬉しかった。
ゲイであることで諦めてきた恋はたくさんあった。でもどうしても大翔を手に入れたくて押し倒したときに言われた大切な言葉。
絶対引かれる、もう友だちではいられないという玉砕覚悟の告白を受けとめてもらえた。
(やさしい大翔に甘えてばかりだ)
弱い自分が情けない。
でも大翔の言葉はふわふわの羽毛のように煌を安心させてくれる。
「……ありがとう。そうしようかな」
「それがいい。でも荷物いるよな。一回取りに行こうか」
「そういえば玄関の鍵閉めてないかも」
「それはマズいな。すぐ行こう」
サンダルを借りて、バンに乗ると三十分ほどで自宅に着いた。やはり鍵は開けっ放しだったが荒らされた形跡はない。
ボストンバックに服や下着、仕事の書類やノートパソコンを詰め込んでいると大翔が室内をウロウロしている。
そういえばこの部屋に来たのは初めてだ。半同棲していた部屋は別れてすぐ引っ越している。
「相変わらず本が多いな」
壁にびっしりと埋め込まれる本棚を見て大翔は懐かしそうに目を細めた。本棚に入らず床に積んでいるものも多い。
「これでも国語教師ですからね」
「なるべくしてなったよな」
これ懐かしい、と本棚から取った本は大翔の好きな作家だ。ミステリー小説で二転三転とする展開が続き、一度読みだすと最後まで読みたくなる魔法がかけられている。
寝不足は避けられないので、読むときは次の日が休日の日だと二人で決めた作家だ。
他にもSFや恋愛小説もある。ネットやテレビで話題になったものはすぐ読みたくなるので映画化やドラマ化しているものも多い。読書家たちからしたら軟派者の部類にされるだろう。
昔から放っておかれると本を読んでいる子どもだった。学校の図書室や市の図書館に行くとたくさんの本が無料で読めて、貧乏だった幼少期にはいい暇つぶしだった。
それがこうじて大人になっても読書は習慣になっている。お陰で国語教師になれたのだから悪くない。
「これが作られてたって食事?」
いつのまにか冷蔵庫を開けていた大翔はタッパーを指さしている。全部おまえの好物じゃんと小声で言ったのが聞こえた気がするが無視をした。
「そう。あと洗濯物も。ほら」
ソファの上に畳まれているものを指さすと「随分几帳面なんだな」と皮肉を交えていた。
必要最低限の荷物を持って外に出ると車が通りすぎた。見慣れた黒の乗用車。まさか、と身を乗り出したがすぐにいなくなってしまった。人気車種だから乗っている人も多い。
「どうした?」
「なんでもない。行こう」
大翔を促して車に乗り込んで、住み慣れた家を後にした。
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