38 / 50
第38話
パンが焼ける匂いで目が覚める。なんて贅沢な夢なのだろうと二度寝をしたくなった。
敷布越しに一階で作業している音がする。
かたかた、とんとん、ちん。
子どものとき、母親が朝ごはんを用意してくれていた音と似ている。早くご飯を食べたいのにもう少しこの音を聞いていたい気持ちがあり、耳をすませていると二度寝をしてしまいよく怒られた。
さすがに社会人なので同じ轍は踏まない。
リビングのテーブルには朝食が用意されていた。
ふわふわのスクランブルエッグ、切れ目の入ったウィンナーと根菜サラダ。トースターには食パンがセットされている。
付き合っていたときもこうして朝ごはんを準備してくれていた。そういうやり取りがなにも変わっていないことに安心してしまう。
朝食を食べて下に行くとパンを袋に詰めている大翔と目が合った。
白いエプロンにビニール帽子とマスク姿はどこか物騒に見える。眼光が鋭いせいだろう。
「おはよう。朝食ありがとう」
「自分の作るついでだからな」
「もうパン作ってるの?」
「これはスーパーに卸す分。開店の九時に間に合うようにしているんだ」
「手伝おうか?」
「いいよ。おまえも仕事だろ」
「まだ時間があるよ」
ここから歩いて二十分ほどで着く。いつもより早起きをしたのでまだ余裕がある。
「じゃあ頼む。これ袋に詰めてテープ留めてくれればいいから」
「わかった」
しっかり手を洗ってマスクをつけた。
初めてやる行為だか慣れると簡単にできる。パンのいい香りがしてきて、さっき朝食を食べたばかりだというのにお腹が減ってきた。
「つまみ食いするなよ」
「しないよ」
「なんか腹減ったって顔してる」
「なんでわかるんだよ」
マスクのせいで目元しかわからないのに大翔はよく見ている。
バツが悪くて声に棘を含ませてしまうと大翔はふふっと笑った。
「ただの勘だよ。やっぱりな」
「おまえカマかけたな」
「引っかかるほうが悪い」
ぶうと両頬を膨らませるがマスクで見えないだろう。大翔はクスクスと笑っていて面白くない。
「奥さんはこっちの手伝いしないの?」
「……しないよ」
「そっか。てか奥さんの許可なくここにお邪魔してるけど大丈夫? 一度挨拶に行ったほうがいい?」
「気にすんな」
大翔はあっけらかんとした様子だったので「もしかして」と淡い期待が息吹く。
ーーなんで別れたんだろうな。俺たち。
大翔の声が蘇る。後悔していた。母親に子どもを抱っこさせてあげるという夢を叶えるために自分と別れて沙良と結婚した。
でもその夢は永遠に叶えられなくなった。
だったらもう自分と大翔を隔てる壁はない。
(また大翔と付き合えるのか)
でも一歩踏み出すのが怖い。この境界線を越えたら最後。もしまた同じようなことが起きたらどうする? 大翔自身が子どもを欲しいと願ったら叶えてあげられないのにそばにいられるか。
(そんなの無理だ)
いまみたいに昔をなぞらえているだけでいい。過去はきれいなままでそこにずっとあり続けてくれる。穢れも劣化もしない宝石のように永遠に輝く。
(いまでも充分だ)
これ以上なにも望まなければ傷つくことなんてないのだから。
ともだちにシェアしよう!

