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第40話

 慣れない道を歩いているとbounheurの店の前を通った。  店内は明るいがCLОSEの看板がかかっている。ちょうど店から箒を持った沙良がきて「こんばんは」と笑顔で挨拶してくれた。  「おうち、この近くなんですか?」  「楠川の家に行こうと思ってて」  いま半同棲しているとは口が裂けても言えない。曖昧に濁すと彼女は都合がいいように解釈してくれたらしく「仲がいいんですね」と笑った。  沙良は購買部に来てくれたときのように白いシャツとデニムに薄いメイクをしている。カジュアルがだいぶ板についてきたように見えた。  「お店、手伝ってるんですか?」  「そうです。パンは作れないんですけどバリスタの資格を持っててコーヒートレジメインでやってます」  「すごいですね」  「昔からコーヒー好きなんです」  「パンもいいけど、コーヒーも美味しいって生徒たちが言ってましたよ」  「いまどきの子はませてるんですね」  ふふっと笑う沙良からコーヒーの香りが夜風のって届いてくる。  会話が途切れてしまった。  きんとする静寂が続き、ではと通り過ぎたかったが沙良は小さく口を開きかけた。まだなにか話したいのだろうか。二人の共通点は、と探すと一つしかない。  「楠川はまだ仕事ですか?」  そう問いかけると沙良は大きな目をさらに見開いた。  「聞いてないんですか?」  「なにを?」  そう問いかけると沙良は眉間に皺を寄せてしばらく考えていたが、諦めたように白い息を吐いた。  「離婚したんです」  「えっ!?」  「お義母さんの四十九日が終わってすぐ。私から切り出したんですけど」  「どうして」  声に悲痛さを込めてしまった。沙良は大翔を愛していた。たぶんそれに大翔も気づいていたはずだ。  「もう楠川を縛るのを辞めようと思って」  そう零す沙良の顔は青白い。そういえば前にみたときより随分と痩せている。彼女なりの戦いがあって、それにようやく決着がついたような戦士の顔をしていた。  「子どもが産めない私といても楠川はいいことないです」  ぐさりと胸を刺された。それは自分も同じだった。  いや、自分は男だからもっと質が悪いかもしれない。  「それに楠川は同意したんですか?」  「わかったってそれだけ。元々あの人は私のことなんて愛してないから」  「……そうなんですね」  そんなこと一言も聞いていなかった。  (離婚したこと、どうして言ってくれなかったんだよ)  本当に大翔との間に隔てるものがなくなってしまった。唯一の砦だった「既婚」という壁が崩れている。  これで大手を振るって付き合えると能天気に考える性格だったらどれほどよかっただろう。  (もう一度なんてやはり無理だ)  大翔を失った絶望を繰り返すくらいならいまのままでいい  そのままずっと続けば自分なりのハッピーエンドへ辿り着ける。  シンデレラや白雪姫のように王子様と結ばれなくても、義姉や小人たちのようにそれぞれ幸せの形を見つけられる。なにも恋愛だけがすべてではないのだ。  沙良と別れて大翔の家へ行くと居住地の二階の一角の明かりが点いている。大翔の部屋だ。  合鍵をもらっていたので鍵を開けて中に入るとリビングのテーブルには夕ご飯が並んでいる。  コンと扉をノックすると大翔が顔を出した。  「おかえり。夕飯先食っちゃったから温めてな」  「あんがと。なにしてんの?」  「なんでもない」  大翔は後ろ手に扉を閉めてしまった。だが学習机の上に山のような教材があるのが見えた。なにか勉強しているのだろうか。  「飯、温めようか」  「いいよ。勝手にやるから」  「そっか。風呂も沸いてるぞ」  「至れり尽くせりだな」  そう揶揄うと大翔は困ったように笑った。こんな好待遇、付き合ったときにしてもらったことがない。  ご飯だけ作ってはいお終い。片付けも掃除もアイロンがけも全部自分の仕事だった。  「奥さんは幸せだな。こんななんでもできる旦那さんで」  「……どうだろうな」  困らせたいわけじゃないのについ試してしまう。どうして離婚したんだって言わないんだよ。いつまで結婚指輪つけてるんだよ。  (そうか)  大翔は沙良へ想いが傾いてしまったのだろう。あれだけの美人と共にしていたら情だって湧く。  もともとノンケの大翔には女といる方がしっくりくるのだろう。  大翔とどうこうなる未来は描けないのに、大翔が他の誰かを愛する姿も見たくない。  「やっぱ出て行く」  「どうして」  「別に部屋の中に入られただけで実害はない。犯人の目星もついてる。逆に言えば家政婦がいると思えばいいんだ」  「なんだ、それ」  自分でもなにを言っているのかわからない。家に帰るのは怖い。でも嘘を吐き続ける大翔に耐えられそうもなかった。  「大丈夫。受験が終わったら警察に行くから」  「それまであの部屋にいるってのか?」  「そうだよ。別におまえには関係ないだろ」  「関係あるだろ!」  ぴしゃりとした怒声に身が竦む。こんな声初めて聞いた。  だがそれが着火剤となり、ふつふつと怒りが湧いてくる。  「これは俺の問題だ。俺の後始末が悪かったせいだ。昔付き合ってたからって顔突っ込むな!」  「突っ込むだろ。三年だぞ。三年も一緒にいて今更無関係な顔できるか」  「子ども欲しいって振ったくせに!」  「それは謝っただろ」  「謝れば済む問題じゃない。俺がどれだけ傷ついたかおまえはわかるのか!?」  肩で酸素を取り込もうとしても足りない。怒りで頭が茹っているせいで身体も熱く、額に汗が浮かんできた。  それは大翔も同じようで首まで真っ赤にさせている。  「おまえと別れて食事ができなくて入院した。誰彼構わず寝た。もう生きたくないって死のうとしたこともある」  大翔の切れ長の目が大きく見開かれた。冷水を浴びせられたようにみるみる顔の色がなくなっていく。  これ以上見ていられなくて背中を向けた。  「じゃあな」  「煌!」  後ろで声をかけられたが振り返らずに外に出た。駅へと向かい来た電車に飛び込み、適当なところで降りた。駅チカのホテルに着くとほっとする。  あんな情けない話、するつもりなかったのに我ながらダサすぎた。  再会してから一定の距離を保っているつもりだった。付かず離れず。まるでにじうおの回りを泳ぐ名も無い魚のように大翔の近くをぐるぐるしていた。  でももうそれも終わりだ。  金輪際もう関わらないと決めて、ベッドに潜った。

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