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第42話
受験戦争が終わりを迎えた。連日のように職員室では合否を告げる電話が鳴り響いていたが、それもピークが過ぎようとしている。
落ちてしまった生徒もいるが、どうにか納得できる道を模索している子もいる。
よかったと一年間を駆け抜けられたことで肩の荷が下りた。伸びをして小休憩を挟んでいると通路を挟んだ机に座っている教員たちが雑談をしているのが耳に入る。
「棗先生ってどうして辞めちゃったんですかね」
「家の事情とは聞いてますけど詳しいことは」
「残念。生徒たちからも人気があったのに」
三人は重たい息を吐き、荷物のなくなった机に目をやった。
棗は学校を突然辞めた。その後釜の教員探しや授業の編成などこちらはいろいろと手間取ったが、棗が辞めてくれたことは嬉しい。
あれから一度も会っていないとはいえ、これですべて終わったと思えなかった。
むしろ受験が終わったいま、なにかしらのアクションがあるのではないか。
かといって警戒するとしてもせいぜい道中やホテルの部屋に入るときだけだ。フロントには自分の名前を訊かれても絶対に教えないで欲しいと伝えてある。ホテルも転々としているから場所も特定しにくいはずだ。
そろそろ貯金も底をつきそうになったので今度の週末に不動産屋に行こうと計画している。もういい加減、一つのところに落ち着きたかった。
終わりの見えない鬼ごっこに精神的に追い詰められてきている。
「今泉先生、いますか?」
「どうされましたか?」
職員室に顔を出したのは購買部のおばちゃんだ。困ったときは煌を頼む、という流れがすっかりできあがっている。
前に来たときは大翔の母親が亡くなったときだと思い出し、もしかしてまたなにかあったのだろうかと心臓がひやりとする。
廊下に出るとおばちゃんは口を開いた。
「楠川さんが今年で購買部に卸すのを辞めたいそうで。なにか訊いてる?」
「……いえ、なにも」
「そっか。私が訊いても教えてくれなくて。お友だちなんでしょ? それとなく訊いてくれないかしら。こっちも急に言われて困っちゃうし」
「……わかりました」
お願いね、と念を押されておばちゃんは購買部へ戻っていった。
話を盗み聞きしていた教師たちがわらわらと集まってきた。噂好きの女は抜け目がない。
「購買パン来なくなっちゃうんですか?」
「そうみたいですね」
「やっぱり利益度外視だから厳しかったんでしょ」
「離婚もされたみたいだし、落ち込んでいるのかもしれないよ」
いくつになっても人のゴシップネタとはどうして人が寄ってくるのだろうか。
それに大翔は生徒だけでなく教師たちからも人気があった。こっそり連絡先を渡している人を見かけたことは一度や二度ではない。
特に離婚したいま、未婚女性たちからの熱烈アピールは続いていた。
あとで訊いてみますと席についてアプリを立ち上げた。
最後のメッセージが一カ月前のもので《夕飯はテーブルにある》と送られてきたものだった。
あのときの夕飯はなんだったけ。せめて家を出る前に食べておけばよかった。手を尽くし、時間をかけて作ってくれたものだったのに。
はあと溜息を吐いて、文章を適当に打ち込んでいるふりをする。とりあえず体面だけ装っておけば満足するだろう。あとは適当に「家の都合みたいです」と誤魔化せばみんな納得する。家の都合、なんていい言葉だ。
《購買パン辞めるってどうして?》と打ち込み、消そうとしたら手が滑り携帯を落としてしまった。拾うときに誤って送信ボタンを押してしまい、慌てて取り消そうとするとすぐ既読がついた。
《直接会って話したい》
すぐさま返事がきて、鳩尾を殴られたように声も出せなかった。
震える手で画面を凝視していると《夜来ていいよ》とメッセージが続く。
大翔が携帯を握りしめて返事を待ってくれているような気がした。いまこの瞬間同じ画面を見て、二人だけの世界ができあがっている。
瞬きも忘れるほど食い入っていたせいか目が乾いた。画面から離れ、瞼に手を置いて深く息を吐くと自分という人間が戻ってくる。
会いたくない。会いたい。会いたくない。会いたい。
コインの裏表の狭間で藻掻いている。深く潜りってしまえば、どちらかの感情のゴールに辿り着く。どちらが正解なのだろうか。
でもこんなことで悩んでいるのも癪だ。なんだか自分ばかり振り回されているようで面白くない。
(話すだけならいいか)
《わかった》と送ると同時に既読がついた。
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