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第44話
念のため病院で検査することになった。どこも怪我をしていないし、痛くもない。首に突きつけられた冷たい感触はどうやら家の鍵だったらしいことも判明した。
検査のあとは警察で事情聴取を受けた。これまでの経緯を話して開放されたのは朝日が昇り始めた早朝だった。
警察署を出ると待っていてくれた白いバンに乗り込んだ。大翔がお疲れと缶コーヒーを渡してくれ、一口飲むと苦みで頭の芯が鈍く痛む。
「……やっと帰れる」
「よかったな、無事で」
「どうして俺が拉致られたってわかったんだよ?」
「煌を待ってたら外で声がしてさ。見ると黒い車が走り出したんだよ」
「でもそれだけじゃ居場所までわからないだろ」
「これ」
携帯画面を見せられた。見たことのある地図アプリが警察署の前で点滅している。
「おまえの携帯にGPSアプリ入れた」
「俺の携帯のセキュリティ、ガバガバじゃん」
「おまえはボーっとしてるとこあるからな」
「うっせ」
でもそのお陰で助かった部分もある。認めたくはないけれど。
「あんがと。助けてくれて」
「無事でよかったよ」
車は滑らかに走り出した。一晩中拘束されていたから疲れた。うつらうつらしていると寝入ってしまい、懐かしい夢を見た。
大翔と付き合って初めてデートした場所は大学近くの図書館だった。
テーブル席を陣取ってお互いのオススメの本を読んで感想を言い合った。帰りに食べたファストフードのハンバーガーはいままで食べたなかで一番美味しくて、夕日が沈んでいくのを二人で眺めた。
なんてことのない一日。けれどその時間は大翔と過ごせたからこそ一番大切な思い出となっている。
『死ぬときに今日のことを思い出したい』
『物騒だな』
『だってすごく幸せだから』
シンデレラも王子と過ごしてきっとこんな気持ちだったのだろう。
ドレスで着飾り、城でパーティーを開かなくても庭を散歩したり、一緒に食事をしたり、たったそれだけのことが特別な時間になる。
好きな人と過ごす毎日はとびっきり甘いケーキよりも幸せな気持ちにしてくれる。
『俺も』
そう言って笑ってくれて初めてキスをした。
「着いたぞ」
ふわりと意識が浮上する。瞼を開けると大翔の家だった。
「ホテルに送ってやりたかったんだけど」
「いい。ここがいい」
「……荷物もあるしな。一回休んでからホテルに送ってやるから」
「ありがと」
リビングに入ると山のような教材があった。ルーズリーフやプリントが散乱している。
「これどうしたの?」
「もう一度、教師になろうかと思って」
「だからパン屋を辞めるの?」
「そう。野球部顧問になって甲子園に行きたい」
その目は未来に向かって真っすぐと輝いている。
きっとたくさん悩んだのだろう。
誰よりも母親のことを大切にしていた大翔だから、その人の大切なものも守りたかったに違いない。
でもきっと自分の夢も諦めきれなかったのだろう。
「これどかすな」
山のような教材を一つに抱え、大翔は部屋に運んだ。
飲みかけのコーヒーやシンクの上には夕飯にするつもりだったのかカレー鍋がある。
自分が攫われて急いでくれたのだろう。
なに振りかまわず来てくれたのが嬉しい。
一度は死んでしまった心に芽が咲き始める。
「離婚したって本当?」
大翔はわずかに目を見開いた。
「そう。向こうから切り出されて」
「なんで言ってくれなかったんだよ」
「それは」
言葉を切った大翔は前髪をくしゃりと掻きあげた。その表情が苦しそうにも悲しそうにも見え、やっぱりと腑に落ちた。
「奥さんのこと好きになったんだろ。今度はちゃんと向き合えよ」
離婚してもまた同じ人と再婚するなんてよく聞く話だ。振られてもお互い想い合っているなら今度こそうまくいく。
「あいつには感謝してる。でもそれは好きとは違うよ」
「じゃあなんでまだ結婚指輪つけてるんだよ」
大翔の薬指には傷一つないエンゲージリングがはめられている。まるで沙良への想いのように一切の穢れや傷もなく、つるりときれいなままだ。
「煌に離婚したこと知られたくなかったんだよ」
「どうして」
「……あのな、煌」
改まった様子に心が期待する。でももう一人の自分が冷静になれと宥められた。
「俺たち、もう一度やり直さないか」
ひゅっと息が漏れた。驚きすぎて声がでない。
様子を伺うように大翔に顔を覗き込まれ咄嗟に俯いた。
「……無理だ」
「やっぱり俺のこと許せないよな」
「そうじゃない。もう一度おまえを失うことになったら耐えられない」
喉がきゅうと締めつけられるように苦しい。苦しくて泣いてしまいそうだ。
大翔を失ったときの痛みはまだ残っている。時間とともに寂しさは形と色が変わっても身体を貫くような痛みだけは変わらない。
それほど大切で大好きだった。
「……煌は絶対わがまま言わなかったよな」
「なんの話?」
「黙って聞け」
脈絡のない内容だったが重要なのかもしれない。口を噤んで続きを待った。
「俺がお袋の仕事手伝うからって泊まらないでいつも帰ってただろ。でも絶対に帰らないでって言わなかった」
「そりゃおまえがお母さんを大切にしてるのわかってたし」
「俺は言って欲しかったよ」
当時を思い返しているのか大翔の顔に暗い影が入る。そんなこと思っているなんて知らなかった。
「俺の行きたいところ、やりたいことばっかり優先してさ。煌がなにをしたいのかよくわからなかった」
「だって大翔に嫌われたくなかった」
「そこだよ。なんでそう思うわけ?」
「……だっておまえノーマルじゃん」
「やっぱりそこに戻るんだな」
「当たり前だろ。ゲイにとっては大事なことだ」
大翔は女も抱ける。結婚もできて、日の当たる真っ当な道を歩ける人間だ。
でも自分は違う。どうしたって同性しか愛せない。
無理やり身体から関係を持ってしまっただけに負い目があった。
だからそれ以上は望まない。
大翔がやりたいことが煌のやりたいことで、大翔が食べたいものが自分の食べたいものになった。そうやって合わせれば嫌われない。一日でも長く恋人としていてもらえると思っていた。
「別れるって言ったときも煌はなにも言わなかったな」
「いつでも別れる覚悟してた。でも実際なるとダメだ。全然ダメだったよ」
あの日々を思い出したくもない。大翔がいない世界は色も味もなにもなかった。
「でも俺はそれが寂しかったよ」
「どうして」
「煌にとって俺ってそれだけの人間だったのかなって。結婚するって言えばさすがになにか言ってくれるだろうと期待した。そしたら辞めようって思った。でも煌はわかったって……」
「俺を試してたのか?」
「そうでもしないと不安だったんだよ」
大翔は前髪をぐしゃりとかき混ぜた。
自分の行動のせいで大翔を不安にさせているなんて思ってもみなかった。
相手に合わせれば嫌われない。ずっとそうやって生きてきたから、まさか本心を言って欲しい思っていたなんて気づくわけがない。
「でもお袋に孫を抱っこさせたかった気持ちもあった。結局自分で決められなかったから、すべて煌に選択権を投げてただけだったんだな」
自分がなにも言わないから大翔は悩んで母親を優先させたのだろう。
あのとき結婚なんてしないで、と言えば違った未来があったのだろうか。
いまさら後悔しても仕方がないのに波のように寄せては引いていく。もうどうしようもないのに波打ち際に立って、呆然と過去を眺めている気分だ。
「練習をさせて欲しい」
「練習?」
大翔は首を傾げた。
「いきなり付き合うは無理だ。だからその前段階にして欲しい」
「彼氏(仮)みたいな感じ」
「そう。お試し期間」
言っている意味を飲み込むように大翔は数秒黙ったあと「わかった」と頷いた。
「三年前といまの俺は違う。それをお互い知っていこうよ」
「煌がそれで納得できるならいいよ」
「うん。そうしたい」
このまま友だちとしているのも変な気分で、一度開けてしまった封が元に戻らないのと一緒で身体も心もすべて明け渡したあとだと友だちには戻れない。
それでいまみたいな歪な関係になってしまったのだ。
付き合うかもう二度と会わないか。
自分たちにはその選択肢しかなかった。
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