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第8話
伸ばしっぱなしになっていた髪は、結(ゆい)に切ってもらった。
買ったばかりの服を着て、洗面台の鏡の前で気合を入れなおす。
今日は、バイトの面接日だ。
「そんなに緊張しなくても、灯なら大丈夫だよ」
「そりゃ、結からの紹介だから、そうなんだろうけど。だからこそ、迷惑はかけられないよ」
結の強い希望で、『大野くん』から『結』へ呼び方を変えた。
まだ慣れないし、呼ぶ度に、にんまりされるので、僕まで照れる。何がそんなに嬉しいんだか。
首輪が見えないようにタートルネックの首元を引き上げる。
バイト先には結から、僕がオメガであることは伝えてもらっている。結の親御さんが経営している会社の系列らしい、市内に何店舗もあるカフェのひとつだ。そもそも、オメガを積極的に雇用しているお店らしい。
――本当は、すぐに結に頼ってしまうのも甘えているように思い、バイト先は自分で捜すつもりだった。
けど、結から止められた。
『近い立場だからこそ、助け合えるし。オメガ以外の従業員も、研修やら試験やらで、しっかり学んでいるから』と、熱心に説得された。
助け合えるとか学んでいるとかいうのは、結の言葉の濁し加減からして、オメガの発情期関係についてだろうと察しはついた。
そんなに、オメガが働く場所を見つけることは難しいんだろうか。
『お前には無理だ。おとなしく甘えておけ』と直接言われたわけではないけど、そういうことだろう。
現実を突きつけられたようで少し悲しい。
「薬は合ってる?」
「うん、ばっちり」
前みたいな、慢性的な倦怠感や突発的な吐き気、頭痛はなくなった。発情期が近づくと、なんとなくだるさは増すし、そういう悶々とした気持ちになることはあるけど、衝動性は低いし、期間も短い。
クローゼットの中で、布団や服を頭から被って、適度に自分を慰めつつ、じっと丸まっていれば、落ち着いてくる。
「薬、合ってるみたい」
結は口を開いた後、また閉じ、それからゆっくり「よかった」と呟いた。何かを言いかけたようだった。
変な沈黙が続いた。結は俯き、口を引き結んでいる。
続きを話す気はないようだ。
「あ、じゃあ、行くね」
「うん。頑張って」
「ありがとう」
最後にもう一度、鏡の中の自分を確認する。
黒のタートルネック、白いシャツに濃いカーキ色のズボン。『普通の人』に見えるだろうか。選んでくれた結のセンスを信じるしかない。
「行ってきます」
履歴書に財布、スマートフォンと家の鍵、メモ帳にペン、鞄の中身もチェックし、部屋を後にした。
扉が閉まる前、結がひらひらと手を振っているのが見えた。
***
どうしよう。緊張しすぎて、お腹が痛い。
お店を通り過ぎては、また戻ってを数回繰り返している。いい加減、いやもう十分に不審者だ。もう一度通り過ぎて、足を止め、俯く。
怖い。
僕の交友関係はとても狭い。
毎日が学校と家の往復で完結しているし、もっと言うなら結と智としか、ほぼ会話をしていない。
親とさえ――人間関係の基礎さえ築けなかった僕が、接客なんてできるんだろうか。
『オメガだから』とか全く関係ない。僕自身がダメダメすぎる。
仕事内容は結から聞いて知っていたのに、今更だろう。
鞄がじんわり重い。結と一緒に買ったスマートフォンが入っている。バイトするって決めたから、わざわざ時間とお金を割いてもらってまで用意したんだ。
「よし」
胸の前に手を当て、大きな深呼吸を繰り返す。
覚悟を決め、お店の方に振り返った。
「あ、鈴木灯さん?」
お店からひょっこり、長身の男の人が半身を出していた。
ふわふわの淡い茶色の髪が、風で揺れている。
白いシャツに濃い赤いエプロン、僕の名前を知っていた。背筋がシャキと伸びる。
お店の、僕の面接をしてくれる予定の方だ。
これまでの奇行を見られていたと思うと、一気に顔が熱くなる。
「あ、そ、そうです」
慌てて駆け寄り、頭を下げる。
恥ずかしくて死にそうだ。
「どうぞ、中へ」
「申し訳ないです」
案内されるがままに、窓際のテーブル席に着席する。
店内には丸いテーブルが5つくらい並んでいた。そこまで広くないけど、観葉植物がたくさん置かれていて圧迫感がない。カウンター席もある。その奥がキッチンになっているようだ。
なんだかいい香りがするし、空気が穏やかだ。流れる音楽も心地よい。素敵な空間だ。
「気に入ってもらえましたか?」
「はい。僕、カフェとか来たことなくて、ずっと憧れていたので――」
言ってから、「あ」と口を抑える。
カフェ未経験なのに、バイト希望って、なんでだよって話だよね。もう話せば話すほど、自分のダメさが出てくる。
紹介してくれた結にも申し訳ないし、こんなの紹介されたお店の方にも申し訳ない。
「顔、上げて」
おそるおそる、声に従う。
少し垂れた目が、なんとなく結と似ている気がする。けど、結よりずっと、声に抑揚があって優しげだ。
「僕は、一ノ瀬 聡(いちのせ さとし)といいます。このエリアの管理者です」
「はい」
「鈴木さんのことは、上から聞いています」
「は、はい」
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