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第3話
振り向くと、彼女は走ってきたのかひどく息を切らせている様子が目に入る。
「どうしたの、サンドラ」
「旦那様がお呼びです。急いで来るようにと」
「父上が?」
「はい。早くとおっしゃっておいででした」
普段暢気な父親が急いで自分を呼び出すなんて、とイアンは不思議に思った。なにか事件でもあったのだろうか。とはいえ、このアドリントン家でなにか事件など考えられない。サンドラがこれだけ慌てて呼びに来るなんて、飼っている牛や馬の出産のときくらいなのだが、今は妊娠している牛も馬もいない。
だが、サンドラの口調から、よほど急いでいるのだろうなとイアンもわかったので「わかったよ。すぐに行く」と作業用の手袋を外す。
彼女の言うとおり屋敷へ向かおうとしたが、サンドラはイアンへなにか言いたげにしており、様子が少しおかしい。
「サンドラ、なにかあった?」
「イアン様、その……いえ、なんでもありません。早く旦那様のもとに」
サンドラは無理やり作ったように小さく微笑んだ。イアンは彼女の様子に引っかかるものを覚えながらも、それを見過ごす。
「そうだね」
イアンはよほどのなにかがあったのだろうと足を速めて屋敷に戻った。
「父上、お呼びですか」
ノックをしながら書斎の扉を開けると、父親のグスタフと兄のフリードがひどく神妙な顔をしてイアンを出迎えていた。
サンドラの様子もおかしかったし、二人の様子も妙だ。
「どうかしましたか」
なにがあったのか、まったく事情がわからないイアンは二人にそう声をかける。すると兄のフリードが先に大きな溜息を落とした。
「兄さん、なにかあったんですか」
「イアン……実は……」
どこか消沈したような表情でフリードがそう口を開きかけると、グスタフが「私から話そう」とフリードの話を制した。
部屋に流れるのは重苦しい空気で、いつもののんびりした雰囲気とはまるで違う。どちらかというと楽天的な父親がこんなふうに眉をひそめているのは、二年前の凶作以来のことだ。
(あのときは大変だったなあ……)
なにかあったときのために、と備蓄していた穀類等も底をつき、にっちもさっちもいかなくなっていた。他領から食料を融通してもらうにも、どこも足元を見て普段よりも高い値段をふっかけられ、そもそもが金のないアドリントンにはどうすることもできなかった。
結局、騎士団にスカウトされたルーカスの契約金と、既に王宮の文官として出世しつつあったニールがどうにか金を工面してくれてなんとか乗り切ったものの、実はその借金もまだすべてが返しきれていない。
イアンが農業に精を出すのも、領内を少しでも豊かにしたいためだった。
それはともかく、父親と長兄の悲壮な顔の理由はなんだろうか。
そう思っていると、父のグスタフが一通の封書をイアンに手渡しながら口を開いた。
「ホルムグレン家からだ」
それを聞いて、イアンは目を瞬く。
ホルムグレン家は伯爵家で、家族ぐるみで親しく付き合いをしている。そしてその家の令嬢アンナとは幼なじみであり、イアンの婚約者なのだ。
そのホルムグレン家からの手紙をいきなりイアンに手渡されて、どこか嫌な予感がした。
「……手紙ですか」
受け取った手紙を見ると、確かに封蝋にはホルムグレン家の印章が用いられていた。
これだけならまったくおかしいところはない。両家ともに密に付き合っているため、手紙などのやりとりも頻繁にあるのだから。
しかし、次に聞いた父親の言葉でイアンの嫌な予感は当たってしまったのだった。
「ホルムグレン家との縁談はなくなった。アンナ嬢との婚約は破棄だ」
苦々しげに口にするグスタフの横で、フリードは大きく溜息をついていた。
イアンにしてもいきなり婚約破棄と言われ、ただただ面食らうばかりだ。
「婚約破棄って、どうして……」
戸惑いながら口にしたイアンに、フリードが「エリクソン公爵家だ」と忌々しげに吐き捨てた。
「アンナ嬢はエリクソン公爵家のゴトフリート様と婚約なさるそうだ」
「ゴトフリートと!?」
イアンは思わずといったように大きな声を出し、慌てて手紙を開く。
そこには伯爵のサインとともに、婚約破棄をする旨の内容が書かれていた。
ゴトフリートはイアンとは貴族学院での同級生だった。自分たちはつい先日、学院を卒業したばかりなのだが、ゴトフリートとはとても仲がいいとはいえなかった。
というのも、ゴトフリートが一方的にイアンをライバル視した上、自身が公爵家の者だからかアドリントン家のことをバカにして蔑んでくるためイアンは相手にしていなかったのだ。なぜライバル視などしてくるのかというと、彼は昔からアンナへ特別な気持ちを抱いていたためだ。
アンナは可愛いだけでなく、気立てのいいやさしい娘で、イアンも一緒にいると穏やかな気持ちになれる。小さな頃から近くにいるのが当たり前だったせいか、恋心というより今はもう家族のような愛情に近いのだろうけれど、一番好きな女性だ。
そのアンナのことをゴトフリートがつけ狙っていたのは知っているし、何度も彼女にアプローチしてはけんもほろろに断られ続けていたのも知っている。
そのゴトフリートがアンナと婚約と聞いてイアンは驚いたのである。
そもそも自分たちの婚約は国王陛下にも届け出ていて、認められているものだ。それを破棄して覆すとなると、相当な手続きを踏まなければならない。しかしこうしてホルムグレン家から書面で婚約破棄を言い渡されたところをみると、既に手続きも済んでいるのだろう。しかし、なぜいきなり婚約破棄なのか。
「父上、どうしてこんなことが」
気が動転したイアンはグスタフに詰め寄る。
手紙には婚約破棄の理由などなにも書かれておらず、一方的にそれを告げるのみの文章で、なにがなんだかわからずイアンは混乱した。
そんなイアンの気持ちを先回りしたのか、フリードが横から割って入った。
「伯爵家はどうやら投機に失敗したらしくてね。あちこちに借金を抱えたようだよ」
「借金?」
「ああ。ホルムグレン家が王都のインメル商会に肩入れしているのは知っているだろう?」
イアンは頷いた。
インメル商会というのは王都で新進気鋭の商会として最近頭角を現している商会だ。そしてその商会の後ろ盾になっているのがホルムグレン家だった。商会は貴族の後ろ盾がなければ高い地位の顧客を掴むことができない。貴族との繋がりがそのまま販路の構築に繋がるためだ。そのため、大手の商会はそれなりの爵位を持つ貴族を後ろ盾に持っていた。
「インメル商会は先だっての嵐で、船を何隻も失ってね。商会に泣きつかれてホルムグレン家が資金援助したようなんだが、その資金を取り返そうと投機に手を出して、大損をしたらしい」
いささか同情的な表情を浮かべながらフリードは続けた。
「そこにアンナにご執心のゴトフリートがエリクソン公爵に頼み込んで借金を肩代わりする代わりにアンナと結婚させろと言ったようだよ。あの家は息子を溺愛しているからね、言いなりになって伯爵家へ縁談を持ちかけたらしい。公爵家にとってはホルムグレンの借金くらいは些細なことだろうし、もちろん伯爵家にとっても借金がチャラになるならと一も二もなく飛びついたということだね。もともと伯爵家の台所事情もはかばかしくなかったようで、エリクソン公爵家からの申し出は渡りに船だったようだ。アンナ嬢もゴトフリート様との結婚に納得しておられると聞いているよ」
「……そうですか」
話を聞いて、イアンはすべて納得した。
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