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第4話
伯爵家にとって、アンナとイアンとの結婚になんらメリットがあるわけではない。アドリントン家との縁談は古くからの付き合いの延長だったし、アドリントン家にとってもそれは同じことだ。
同じくらいの年回りの子が互いにいて、家同士の付き合いも親密だったし、デメリットがなかっただけの話である。
「……仕方ないですね。僕にはなにも言えませんし。アンナのためにもゴトフリートと結婚するほうが幸せでしょうから。アンナはとても賢い女性ですし、ゴトフリートと一緒に伯爵家をもり立ててくれるに違いありません。それにゴトフリートもあれだけアンナに執着していたのですから、きっと大事にしてくれるでしょうし」
イアンはにっこりと笑いながらそう言った。
だが、顔で笑っていてもがっかりしたことに変わりない。せめてアンナがゴトフリートとの結婚で幸せになることを祈るだけだ。
「アンナ嬢とおまえは幼い頃から仲がよかったからな。……我が家が貧乏なばかりにおまえには申し訳ないことをした。伯爵家を手助けできるくらいの財力があったなら、こんなことにはならなかったのだが」
すまない、とグスタフがイアンに頭を下げた。
「ち、父上……! 頭を上げてください。僕のほうこそ……破談になってしまって、申し訳ありません。伯爵家と縁続きになれば、アドリントンの暮らし向きもいくらかよくなるかと思っていたのですが、お役に立てず……」
そう、イアンが成人してもまだアドリントン家に残っていたのは、アンナと結婚して伯爵家に入ることが決まっていたからだ。
伯爵家はアンナの他には跡取りがなく、イアンを迎えることでホルムグレンの家を継ぐこととなっていた。それも今では叶わなくなってしまったのだが。
そうなると、イアンは婚約破棄されたと同時にこの家にとっても厄介者となってしまったことになる。
なにしろこの家を出て生活をする基盤がまるでない。だが、このまま家にいれば、ただの穀潰しになってしまうだけだ。
「おまえのせいではないよ、イアン」
この件については誰も悪くはないのだ。貴族社会の中でよくあることのひとつでもあるし、けっして珍しいことではなかった。
「仕方がない。犬にでも噛まれたと思うことにしようか。それに終わってしまったことを憂いてもなにかが変わるわけでもないしな。きっとまたいい縁があるだろうよ。おまえもあまり気落ちしないように」
グスタフはそう言いながら、イアンへと歩み寄り、肩をひとつポンと叩いた。
そのとき、「旦那様」と家令のギュンターの声と同時にドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
グスタフの命でギュンターはドアを開けて中に入ってくる。
「旦那様、ホルムグレン伯爵家のアンナ様がイアン様にお目にかかりたいと。先触れはございませんでしたがいかがいたしましょうか」
ギュンターは恭しくそう告げた。
きっとアンナはイアンとの婚約が破棄されたことを聞きつけて、イアンに謝罪をしにきたのだろう。彼女はとてもやさしい娘だ。きっとこのことでイアンはじめアドリントン家の者を傷つけたのでは、と胸を痛めているに違いなく、また同時に彼女自身を責めてしまっているのかもしれない。
(アンナはそういう子だ)
幼い頃から家族同然の付き合いで、折に触れ彼女はアドリントンの家を気遣ってくれていた。この婚約破棄はおそらく彼女にも寝耳に水だったのだろう。事情を聞いて、駆けつけたのだとイアンは推察した。
グスタフはギュンターの言葉を聞いてイアンのほうへ顔を振り向ける。
「どうする、イアン。断ってもいいが」
「そうですね……婚約していたとはいえ、彼女はもう気軽にここへ来ていい人ではなくなったのですし、お断りしてください。きっと彼女はホルムグレン家に内緒でここに来ているでしょうから、あまり人目につかないうちにお帰りいただいたほうが」
本当は会って直接お祝いを言いたい気持ちもあったが、彼女のためを思えば今自分と会うのはあまりいいことではないはずだ。既にイアンとの婚約は破棄され、彼女は新たにエリクソン公爵家との縁組みがなされている。婚約者のいる女性が婚約者以外の男性と会うのは好ましいものではない。
グスタフも「それもそうだ」と相槌を打ち、ギュンターへ馬車を帰すようにと命じた。
「でも、馬車は少し待たせておいてください。アンナに渡したいものがありますし」
「渡したいもの?」
「はい。彼女の好きな果物を」
アンナは幼い頃から身体が弱く、よく体調を崩して寝込むことが多かった。食も細いことから、いったん体調を崩すと回復にも時間がかかるのだという。けれど、イアンの育てた季節の果物だけはよく食べられることと、またアンナが言うには「イアンの果物を食べると元気になるの」ということらしく、よくねだられたのだ。
実際、イアンのところを定期的に訪れて果物を食べるようになってからは、随分と体調が整えられていたようだ。以前は頻繁に発熱していたらしいが、イアンの果物を食べるようになってからは床に伏せるのも一年のうち一度か二度になったと聞く。
アンナが喜んでくれるから、とイアンは季節ごとに彼女の喜ぶような作物を育てるようになったのだ。
(それももうお役御免だな)
もともとホルムグレン伯爵はイアンの土いじりについてあまりよく思っていなかったようだ。仮にも貴族が農民の真似事をするなど言語道断、と古い考え方の伯爵は許しがたかったらしい。アンナがイアンの育てた果物を好んでいたからお目こぼしされていただけであって、アンナと結婚した後は土いじりは避けてほしいと遠回しに言われていた。
だから、アンナがゴトフリートと結婚することになって伯爵もホッとしていることだろう。
そんなイアンの返事を聞くとグスタフは「ああ」と思い出したように手を打った。
「おまえはアンナ嬢に定期的に果物を贈っているのだったな」
「ええ。とはいえ、果物を差し上げるのもこれで終わりでしょう。なので、最後くらいはたっぷりと召し上がっていただきたいのです。僕からの婚約祝いとして」
「そうだな。アンナ嬢はいつもおまえの作った果物を美味しそうに食べてくれていたし、そのくらいはホルムグレン伯爵もお許しになるだろう。……では馬車は少し待ってもらうようにしておこう。おまえは果物の支度をしてきなさい」
「はい、ありがとうございます」
イアンはグスタフの書斎から出ると、すぐさま庭へと足を向けた。
アンナに贈る果物は、ちょうど今ならブドウが走りで、収穫するにはいい頃合いだ。それからイチジクも美味しい。あとはアプリコットが少しばかり残っているだろうか。それにベリー類もいいだろう。
大きなカゴを手にすると、アンナのために果物を見繕って次々に入れていく。
大好きな幼なじみにもう気軽に声をかけられなくなるのは残念なことだが、それよりも彼女の幸せを祈っていた。
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