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片恋②

 天気予報が嘘を吐いた。雨が降りそうで降らない薄曇りの空に、薄ぼんやりとした半透明の光が散らばっていた。  掃除当番だった曜介は、満杯のゴミ袋を担いで、足取り重くゴミ捨て場へと向かっていた。こっそりサボろうとしていたのを京太郎に見つかって連れ戻され、散々働かされた挙句、一番面倒くさい仕事まで押し付けられる羽目になった。  ゴミ捨て場は校舎の裏にあり、こんな機会でもなければ来ない。梅雨の合間に特有の、どっちつかずの鬱陶しい空模様も手伝って、あらゆる気力が削がれていく。引きずるようにして持ってきたゴミ袋を、乱暴に放り投げた。   「……」    その時だ。どこからか水音がした。雨かと思い空を見る。薄い雲に覆われてはいるが、雫はまだ落ちてきていない。   「ぁ……こら……」    まただ。今度ははっきりと声がした。  もはや音の正体を探るまでもない。ここは校舎裏で、しかもゴミ捨て場の近くだ。滅多に人は来ないし、来たとしても長居はしない。カップルがこっそりとイチャつくには絶好の場だろう。  そして、曜介には声の主も分かっていた。何年も共に過ごしてきたのだ。この耳は、あいつの声を聞き間違えるはずがない。   「おい……これ以上は……」 「いいじゃねぇかよ。コッチはもうその気なんだけど?」 「だったら……ホテルにでも連れていってくれよ」 「いいのか? 先約は?」 「今日は誰とも予定ねぇから……」    よせばいいのに、と頭の片隅では分かっているのに、曜介は建物と建物の間に挟まれた狭い空間を覗いていた。   「んっ、も……んなとこ、やめろって……」 「ちょっとだけだから。な、な?」    一人は三年の先輩だ。そしてもう一人は、見飽きるほどに見つめ続けた小柄な後ろ姿。真尋のその細い腰に、武骨な手が這っている。   「エロい体しやがって。カワイイな、お前はホントに」    真尋もまた、そのしなやかな手を男の首筋に巻き付けて、甘えるように抱きついている。曜介に覗かれていることにも気付かないほど深く絡み合い、キスに没頭している。  曜介は忍び足でその場を離れた。十分な距離を取ってから走り出し、二度と振り返らなかった。    中学に上がってすぐのことだ。真尋が男と付き合い始めた。三年の先輩だった。その頃には既に、曜介は真尋に避けられていたから、詳細を本人の口から聞いたわけではないが、先輩の方から告白してきたのだという。  しかし、最初の彼氏とはあっという間に別れた。それからすぐ、今度は二年の先輩と付き合い始めた。しかしこれも即行で別れ、後はもう、似たようなことの繰り返しだ。  誰とか先輩と付き合っただの、隣のクラスの誰とかくんと別れただの、他校の生徒と遊んでいるのを見たとか見ないとか、高校生と歩いているのを見たとか、果ては大学生とも遊んでいたとか、そんな噂が瞬く間に広がって、やがて誰も驚かなくなった。  真尋が今どんな男と付き合っているのか、曜介は何も知らない。京太郎もおそらく知らないだろう。当の真尋本人でさえ、全てを把握し切れてはいないのかもしれない。    *    ゴミ出しを終えて教室に戻った。清掃班のメンバーはもういなくなっている。それぞれ部活や委員会に行ったのだろう。放課後の教室には、男子生徒が数名残っているだけだった。   「……いいなぁ」    一人が呟いた。彼の視線の先、廊下をカップルが歩いていた。付き合い始めて日が浅いらしく、手が触れるかどうかという微妙な距離感で、初々しくも仲睦まじい姿を見せつけている。   「いいなぁ」    もう一度呟いた。一応クラスメイトではあるが、あまり関わったことのない連中であり、曜介は彼らの会話に入るでもなく、何とはなしに聞き流していた。   「いいなぁ。オレもなぁ」 「諦めろ。お前じゃ無理だよ」 「でもさぁ、高校生のうちに一回くらいはさぁ」    ヤりたいよな、とさらに声を潜めて呟いた。   「誰かヤらせてくんないかな。一回だけでいいんだけどな」 「んな都合のいい奴」 「いるじゃん。うちのクラスには、有名なのが」 「ああ、高峰ね」    突然、この場にはいない真尋の名前が挙がった。聞きたくなくても、会話が耳に入ってくる。   「やめとけよ。病気移されるぞ」 「でも、男と見りゃ誰にでも股開くんだろ? オレにもワンチャン」 「この前、サラリーマンっぽいおっさんと歩いてるの見たな」 「マジかよ。おっさんとヤるくらいなら、オレにもヤらせてくんないかな。頼めば行ける? 金払えばいいの? まぁどうせビッチなんだし──」    彼の言葉は遮られた。というのも、曜介が机を蹴り飛ばしたためである。激しい物音と共に机が倒れ、参考書が散らばる。教室の隅に固まっていた男子生徒数名は、呆気に取られた様子で曜介を振り返った。   「……もういっぺん言ってみろ」 「は? え、なに……」 「もういっぺん言ってみろっつってんだよ」 「な、なにキレてんだよ? 事実だろ。高峰がビッチだってのは──」    瞬間、視界が血で染まった。気付いた時には、曜介は男に殴りかかっていた。握りしめた右の拳が痺れていた。   「何も知らねぇくせに、好き勝手なこと言ってんじゃねぇよ」 「じ、事実だろーが! みんな言わないだけで、高峰の男好きはみんな──」 「あいつがどんな思いであんなことやってんのか、その足りねぇ頭で少しは考えてみろってんだ」    曜介は男の胸倉を絞め上げて、高く拳を振り上げた。   「そこまでだ」    振り上げた拳を止められた。京太郎だった。喧嘩が始まったと、教室の外では結構な騒ぎになっていた。大きな物音に驚いた誰かが、京太郎を呼んでくれたらしい。曜介が揉め事を起こす時、止めに入ってくれるのは決まって京太郎だった。   「止めんなよ。じゃなきゃ俺の気が済まねぇ」 「いいや止める。冷静になれ、曜介」 「っ……クソ」    曜介は振り上げた拳を静かに下ろした。曜介の剣幕に悲鳴を上げて縮み上がっていた男は、京太郎の介入もあってか、いくらか余裕を取り戻したらしい。その汚い口を再び開いた。   「へへ、なんだ。杉野お前、お前も高峰とヤりてぇだけなんだろ」 「……あ?」 「おい、余計な口を叩くな。曜介も落ち着け」 「あいつの気を引きたくてこんなことしてんだろ? でも残念。高峰の奴、お前のことなんか全然眼中にねぇじゃねぇか。それとも、ガキの頃にもうヤッたとか? 同情するぜ、あんなのが幼馴染なんて。想像しただけでぞっとしねぇよ」 「てめぇ……」    京太郎の必死の制止も、今の曜介には届かない。下ろした拳を再び振り上げ、思い切り振り抜いた。  真尋に関することで曜介が問題を起こすのは、これが初めてではない。前回は、中学生の時。真尋が男をとっかえひっかえするようになった頃のこと。今回と同様、真尋を侮辱されて大暴れした。  それから、あの夏の忌まわしい事件のすぐ後のこと。夏休みが明け、二学期が始まって少し経った、残暑の厳しい秋の日だった。

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