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片恋③

「悔しいね」    真尋に初めて試合で負けた日の夜。夕食の席で、父はそう言った。「悔しくない」と曜介は強がった。曜介のその子供らしい強がりを見抜いた上で、父は優しく言う。   「悔しいと思うのは悪いことじゃないんだよ。悔しい、負けたくないって思うからこそ、人は強くなれるんだから」 「でも、俺は強いし」 「曜介はもっともっと強くなるよ。それにね、ただ強いだけじゃダメ。いつも言っているでしょう」 「……ひとに、優しく?」 「そう。自分のためだけじゃなくて、誰かのために強くあれること。それが本当の強さだと、お父さんは思いますよ」 「……」 「こら、お箸を舐らない」    父には、未来への予感めいたものがあったのだろうか。曜介は、真尋というライバルを得たことにより、真面目に稽古に取り組むようになった。真尋もまた、曜介に勝ちたい一心で、誰よりも熱心に稽古に励んだ。素振り一つ取っても、真尋の真剣さに敵う者はいなかった。  そんな真尋に負けたくなかった。誰よりも強くありたかった。強くありたかったのに。    悔しいとはこういうことだ。あの夏の日、一学期の終わり、夏休みの始まりの日に、曜介ははっきりと思い知らされた。  大切なものを奪われた。腕の中に抱きしめた小さな体が震えている。そばにいてと震える声で言ったあいつの、血の気の失せた頬を涙が伝う。濡れた睫毛が震えている。  悔しかった。憎らしかった。自分の弱さと愚かさが。もっと賢くて力があれば、こいつを守ってあげられたのに。  驕っていたのだ。守られた狭い世界の中で、全てを知った気になっていた。己を過信していた。箱庭から一歩外に出れば、自分はただの、無知で無力な幼い子供に過ぎないのに、そんなことも知らずにいた。  この小さな両腕では、声もなく涙を流す真尋の小さな体を、ただ抱きしめてあげることしかできない。あらゆる恐れを払いのけ、残酷な現実から遠ざけてやることができない。  この小さな両手では、何もしてあげられない。ただ、抱きしめてあげることしか。それだけで精一杯だった。  真尋を襲った男は、よりにもよって曜介達のクラス担任だった。夏休みの間に懲戒免職処分となり、二学期からは別の教師が担任に就いた。  事件について、大きく報道はされなかった。特に子供達に対しては、詳細な事実は伏せられた。それでも、噂はどこからともなく流れ、二学期が始まる頃には皆の知るところとなっていた。   「にしてもあいつ、よく学校来られるよな」    五時間目と六時間目の間の短い休み時間での出来事だった。真尋が席を外したのを見計らったように、誰かが口火を切った。   「オレなら恥ずかしくて生きていけないね。男のくせに、男にヤられるなんてさ。しかも軽部のヤローにだろ?」 「オレはイタズラされたって聞いたけど」 「だから、それがヤられたってことなんだよ。真尋の奴、軽部とチューしたんだぜ」 「マジで? きったねー!」 「な! ありえねぇよな! 軽部なんかとするくらいなら死んだ方がマシだっつーの」    それは、子供なら誰しもが持っている無邪気な残酷さであり、邪悪な好奇心だった。曜介だって、彼らと然程変わらない。誰も彼もみんな子供で、事の重大さを真に理解してなどいなかった。  こんな時、どんな行動を取るのが正解なのか、曜介には分からなかった。ただ、大切な親友を侮辱されて黙っていられるほど、曜介は大人じゃなかった。そんな大人になるくらいなら、一生子供のままでいい。  間髪入れずに掴みかかっていた。ついさっきまで、真尋に対する悪意の限りを威勢よく並べ立てていた男子児童は、曜介の剣幕に気圧されつつ頬を引き攣らせた。   「な、何だよ、急に」 「……黙れよ」 「はぁ?」 「あいつの……真尋のこと、何も知らないくせに、好き勝手なこと言ってんじゃねぇって言ってんだよ」 「あぁ? んだよ、曜介。お前は真尋の味方ってわけ? 軽部とチューしてたのに? お前見てたんだろ?」 「……黙れ」 「大体、真尋も悪いんじゃねぇの? あいつ、先生に贔屓されてたじゃん。あいつの方から先生誘って、だから贔屓されてたんじゃねぇの?」 「黙れって、言ってんだろ……っ!」    思い切り拳を振り抜いていた。殴り倒した勢いで馬乗りになって、さらに拳を振り上げる。   「何にも知らないくせに!」    あの夏の日、この教室で何が起きたのか。どれほどの恐怖と絶望が真尋を襲ったか。信頼できるはずの教師に裏切られ、圧倒的な力の差にねじ伏せられて、尊厳を踏み躙られたことを。あんな目に遭わされたのに、家族に心配をかけまいとして気丈に振舞っていることを。みんなみんな、ちっとも知らないくせに。   「今度あいつを馬鹿にしたら、全員ぶっ殺してやる!」    泣いていたのだ。声もなく、泣いていた。粘着くような真夏の日差しに遮られた、暗く湿った放課後の教室で。小さな体を震わせて、泣いていた。あの涙を、誰も、何も、知らないくせに。  真尋は元々よく笑うし、よく怒るし、よく泣く。曜介に剣で負けた時、悔しそうに瞼を擦っていた。犬が死ぬ映画を見た時、鼻の頭を真っ赤にしていた。  しかし、あの日の涙は。真尋があんな風に泣くなんて、曜介はあの時初めて知った。悔し涙でもない、悲しくて泣くのでもない、もちろん感動の涙でもない。血の気の失せた頬を静かに伝うだけの涙なんて。  真尋をこんな目に遭わせた奴を許せるはずがないと思った。思ったのに、涙を流す真尋と、それを抱きしめる曜介を、ただ黙って見下ろす男の目が恐ろしくて、動けなかった。逆光の中に、冷たい瞳だけが浮かび上がっていた。毎日顔を合わせていたはずの先生が、まるで知らない人みたいに思えた。  曜介が無知で無力な子供なら、先生は知恵が回り腕力もある大人の男だ。そこにあるのは圧倒的な力量差だ。曜介が立ち向かったところで、敵うはずもない。そのことを、やり合う前から理解させられる。  父と親子喧嘩をしたことはある。何度もある。ゲンコツをもらったこともあるし、剣道の稽古中なんかは何度も泣かされた。それでも、最後には優しく抱きしめてくれる。頭を撫でてくれる。一緒に食卓を囲んでくれる。最後には許してもらえると分かっているから、安心して喧嘩ができる。  だが、今目の前にいるこの男は。今この瞬間、この男は決して曜介を許しはしないだろう。もちろん、真尋のことも。一度怒らせたら、それで終わりだと感じた。  だから、動けなかった。立ち向かう勇気が出なかった。真尋を抱きしめて、せめてこれ以上こいつが辛い思いをしませんようにと、祈ることしかできなかった。  悔しかった。憎らしかった。自分の弱さと愚かさが。真尋のために何もできない。守ってあげられない。誰かのために強くなれと父に教わったのに、曜介はあまりに無力だった。そのことをはっきりと思い知らされた。    あの後、喧嘩を止めに入ったのは京太郎だった。騒ぎを聞きつけ、先生達もやってきた。教室はめちゃくちゃで、次の授業は中止になった。殴られた男子児童は、顔を真っ赤にして泣きじゃくっていた。曜介の拳には血が滲んでいた。   「待たせて悪かったな」    六時間目から放課後まで、職員室でこってり絞られた。曜介はもちろん、喧嘩相手の男子も一緒に叱られた。曜介が下校の許しをもらうまで、京太郎と真尋は校庭で待っていてくれた。   「宿題やって、鉄棒やって、縄跳びやって、ブランコ乗ってる間に来たから、そんなに待ってないぞ」 「いやだいぶ待たせたよな。俺、何時間職員室にいたんだろ」    京太郎はブランコから飛び降り、無造作に置いていたランドセルを背負う。真尋もまた、地面に転がっていたランドセルを拾い上げる。帰ろうと京太郎が言い、三人は校門に向かって駆け出した。  黒いランドセルを背負った、真尋の後ろ姿。見慣れているはずなのに、どこか遠い存在に思えた。黄色い帽子、半ズボンから伸びる足、泥のついたスニーカー。絆創膏を貼った膝小僧。   「ぼさっとすんなよ。置いてくぞ」    真尋が振り向き、手を差し出した。早く一緒に帰ろう。疲れているなら引っ張っていってやるから。そう言われているのは分かっていたのに、曜介はその手をついぞ取ることができなかった。足元に落ちた影だけが長く伸びていく。   「お前たち遅いぞ! 競走してたんじゃなかったのか!」    遠く校門の手前で京太郎が呼んでいる。曜介は曖昧に笑って誤魔化して、真尋の脇をすり抜けた。  夏の間、あんなにも眩しく燃え盛っていたのが嘘みたいに、太陽の光は日増しに衰えていく。秋の風が梢を揺らして、往き遅れたヒグラシの残響を掻き消していく。不確かな大気の揺らぎが影になり、その一つ一つに、夏の残照が煌めいている。    差し伸べられた手を取ることができなかった。真尋の手を取れなかった。そうする資格が曜介にはなかった。真尋を守ることのできない弱い男だから。それだけではない。あの夏の日、曜介の中に芽生えたものが原因だった。  ガラスを破って飛び込んだ、閉め切られた教室で見た光景が、何度も何度も、まるで毒でも回ったように、頭の中で繰り返される。教卓の上へと押さえ込まれた真尋の姿。腕の中に抱きしめて触れた体の温もり。中途半端に乱れた衣服と、そこに覗く汗ばんだ白い肌。氷のような指先も、涙に濡れた睫毛さえ、曜介の中の何かを狂わせた。  まさに毒だ。あんなに酷い出来事は早く忘れてしまいたいのに、曜介の中の何かがそうさせない。目を瞑れば、瞼の裏に映し出される。早く忘れなければいけないと思うのに、事あるごとに思い出してしまう。  曜介の中に芽生えた感情は、あの日真尋を襲い傷付けた衝動と変わりない。そのことに気付くのに、そう時間はかからなかった。真尋を犯したあの男と同じ悪魔を、曜介も自身の中に飼っている。  これは恐ろしい罪だ。無力であることよりも罪深い。守りたいと思ったものを、己の手で傷付けてしまうかもしれない。だから、曜介は真尋に触れられなかった。触れることができなくなった。  触れたら壊してしまうと思った。だって、あんなにも小さく、細く、柔らかい。触れたら簡単に崩れ去ってしまうような気がして、怖かった。    だから、高校生になった今でも、曜介は真尋に触れられない。

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