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第二章 罪業①

 どこからかヒグラシの残響が聞こえている。目を開けても、耳鳴りはやまない。   「見ろ! 海だぞ!」    隣の席に座っていた京太郎に肩を揺さぶられ、真尋は浅い眠りから覚めた。京太郎は興奮して窓の外を指し示す。通路側にいる曜介のことも叩き起こし、「海が見えたぞ!」とはしゃいでいる。  海が見えたくらいでいちいちうるさい奴だとも思うが、修学旅行生を大勢乗せた機内は妙な高揚感に満ちている。海が見え、陸地が近付いてくるのに比例して、皆のテンションも爆上がりだ。  飛行機は無事空港に着陸した。東京はこのところめっきり涼しくなり、木の葉が赤く色付き始めているというのに、この南の島には夏がまだ我が物顔でのさばっている。真尋は帽子を深く被り直した。日差しが厳しく、目の前にあるものさえ直視することができない。  沖縄でも蝉は鳴くらしい。南の風と、波の音と、重なり合いながら広がっていく蝉時雨と。まるで耳鳴りのように、耳元で騒ぎ続けている。   「どうした。黄昏れてるのか」    崖の上に一人佇む真尋に、京太郎が言った。   「別に。海は綺麗だと思っただけだ」 「そうだな。これのために来たと言っても過言じゃない」 「……」 「ほら、早く来い。みんな……曜介も待ってるぞ」 「……ああ」    果たして本当にそうだろうか。曜介は今でも、真尋を待っていてくれるだろうか。    全てが始まり、そして終わったのは、あの夏の日のことだ。真尋は何も知らなかった。まさか自分が、男を惹き付ける誘蛾灯だったなんて。  暑い日だった。何もせずとも汗が噴き出た。青く煌めく熱風も、騒がしい夏の日差しも、暑苦しい蝉の大合唱も、かつては真尋のものだった。  初めて、ヒトに触れられた。汗でベタついた手と、唾液の粘着く唇。それらに初めて触れられて、体の隅々まで触られて、暴かれた。かつて真尋が当たり前に持っていたものは、その瞬間、いくら手を伸ばしても届かない場所へと消えてしまった。  閉め切られた窓の向こう。グラウンドで遊ぶ子供達の声がする。誰しもに平等に降り注ぐはずの夏の日差しは、厚いカーテンに遮られ、真尋の足元さえ照らしてはくれない。  痛いとか、怖いとか、それ以前の問題だった。目の前の景色が音もなく崩れていく。信じていた世界が足元から崩れていく。この感覚が、絶望なのだろう。  深い深い、底が見えないほどの絶望だ。胸が潰れる。息ができない。瞬きさえも、できない。  自分の体が、手足が、自分のものではないように感じた。自分が本当はどこの誰なのか、それすらもよく分からない。全てが作り物のように思えた。指先から砂になって、風に消えていくように感じた。  真っ黒なクレヨンでキャンバスを塗り潰すように、真尋の心は一度死んだ。閉じかけた世界を再び照らしてくれたのは、曜介だ。固く閉ざされた窓をぶち破って、真尋の心をこじ開けた。割れた窓から差し込む光は頼りなく、けれども、黄金よりも目映く輝いて、闇に沈む教室を照らしていた。   「真尋! 大丈夫かよ、何があった」    その小さな両腕に抱きしめられて初めて、自分が震えていたことに気が付いた。差し込んだ光が濃い影を落としていた。    *    水族館の館内は、海の底のような静けさと薄暗さだ。海をそのまま切り取ったような巨大な水槽の中で、ジンベエザメやマンタが悠々と泳ぎ、イワシの群れは忙しなく、水面は絶え間なく揺らぎ、差し込む光が砕け散る。  海底を這いつくばって砂を噛んでいる小さな魚。あれは真尋だ。誰の目に留まることもない。取るに足らない存在だ。鱗が鈍く光っている。  この広い水槽の中で、彼はどこまでも独りぼっちだ。群れに加わろうとしても、同種の仲間はどこにもいない。水面に揺れる光に飛び込もうとして、別の魚に弾かれる。結局、海底だけが彼の居場所だ。誰も彼もに見下ろされ、砂に映った仲間の影を追いかけて、水槽の隅の、岩場の陰から動けない。  水槽の向こうに、曜介の姿が見えた。水底に立ち尽くしているように見えた。けれども、実際に海に沈んでいるのは真尋自身だ。曜介の視線が上へ上へと向けられる。その瞳に映る色を、真尋は知ることができない。    ずっとずっと、曜介に憧れていた。同じ目線で同じものを見ていたくて、我武者羅に努力したこともあった。だが、全部無駄だったのだ。あの日、全てが奪われた。真尋の全てが無に帰した。  曜介はあの日、閉め切られた窓を破って、真尋を助け出してくれた。闇に呑まれそうな真尋を救い上げて、あの男の手から奪い返してくれた。あの瞬間、曜介は真尋にとってのヒーローだった。思わず、縋り付いていた。  そんな真尋を、曜介はどう思っただろうか。恐怖に震え、ヒーローに縋って泣くだけの真尋を、曜介はどう思っただろう。  もう二度と、真尋は曜介と同じ場所に立つことはできない。同じ目線で同じものを見ることはできない。そんな資格を、もう持ってはいないのだ。  強くなりたかった。曜介と並び立つくらい、強くなりたかった。曜介とまともにやり合えるのは自分だけだという自負もあった。しかし、そんなものは幻だった。誇りは全て打ち砕かれた。最後に残ったのは、弱く、ちっぽけな、取るに足らない己のみだ。  曜介にだけは知られたくなかった。こんなにも惨めな姿を、あいつにだけは見られたくなかった。  あの日、真尋は確かに助けを求め、曜介はそれに応えてくれた。割れた窓に差す一筋の光は、地獄に垂らされた蜘蛛の糸だった。曜介の小さな腕に抱きしめられて、その優しい温かさを知った。それがどうしようもなく嬉しくて、悲しかった。自分があんまりにも惨めで、そんな姿を曜介の前で晒してしまったことが、さらに悲しみを深くした。  曜介の瞳に、真尋はどんな姿で映っているのだろう。恐ろしくて、とても直視できない。もうこれ以上、曜介には何も知られたくない。もうこれ以上、自分を見ないでほしかった。目映い光に照らされた影は一層色濃く、真尋の足元まで伸びている。

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