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第三章 離別①
今年の夏休み、一度だけ真尋と会った。おそらくは京太郎の計らいだったのだろう。京太郎の妹を含めた四人で、虫取りに出かけた。
夏休み直前の、雨の日の出来事。あれ以来、真尋が少しだけ心を開いてくれていると、曜介は感じていた。だからこそ、京太郎の誘いに乗って、虫取りなどというお子様の遊びに参加したのだと。だから、曜介とも会ってくれたのだと。
あの日は朝からカンカン照りで、炎天下での虫取りはかなり応えた。しかし、そこは幼少期から慣れ親しんだ雑木林だ。凸凹だらけの山道も慣れたものである。
昔は、どこまでも続く広大な森だと思っていた。しかし、高校生の足ならば簡単に一周できてしまう。昔は、こんなにも狭い場所を世界の中心のように捉えて、木の葉や泥にまみれながら、全力で遊んでいたのだ。
「……その蝶、綺麗だな」
真尋が黒いアゲハ蝶を指に止まらせていた。曜介を横目に見て、「ああ」と短く返事をする。
「カゴに入れなくていいの」
「……もう一匹捕まえてあるから、こいつは逃がす」
「そ。……綺麗な蝶だな」
「ああ」
会話はあまり続かなかった。アゲハ蝶は真尋の指を這い、大きな羽をゆっくりと開く。
本当に綺麗な蝶だった。真夜中の宝石のような羽が、見る角度によって色を変える。枝葉の隙間から漏れ差す光を反射して、厳かな煌めきを宿している。
昔、蝶にはほとんど興味がなかった。関心事といえば、もっぱらカブトやクワガタだ。どれだけ大きく強いカブトムシを捕まえられるか、それだけが重要で、そのことばかりを考えていた。
だから、蝶がこんなに美しいなんて、知らなかった。見もしなかった。この森が、本当はこんなにも美しかったなんて。青葉を透かした木漏れ日の下、蝶と戯れる真尋の姿が、こんなにも美しかったなんて。曜介は全然知らなかった。
「あっ」
風を捕まえ、蝶が飛び立った。軽やかに羽ばたいて、青空へと舞い上がる。最後に残るのは、確かにそこにあった輝きだけだ。
「あーあ、あっという間に行っちゃった」
「……ほしかったか」
「……ちょっとな」
次捕まえたらお前にやるよ、と言って真尋は微笑んだ。けれど、二度と捕まえることはできなかった。口には出さなかったが、あの蝶は少し真尋に似ていた。
夏の木漏れ日に照らされた真尋の微笑みがあまりに美しかったので、思わず期待してしまった。開いていくばかりだと思っていた真尋との距離が、少しずつでも縮まるのではないかと。過去をなかったことにはできなくても、今からできる範囲でやり直すことは可能なんじゃないかと。曜介の罪を、真尋が許してくれるのではないかと。
*
「おい、明日の予定確認するからって、京太郎が」
自販機でジュースを買ってくると言って部屋を出た真尋が、同じクラスの男に迫られていた。自身のタイミングの悪さを呪いつつ、曜介はさりげなく助けに入る。真尋はひどく傷付いたように顔を歪め、たちまちのうちに走り去ってしまった。強引に迫っていた男のことは一発殴っておいた。
しかし、あんな場面を見せられて、とても冷静ではいられない。それだけでなく、曜介は昼間にも見てしまったのだ。自由行動中にいなくなった真尋が、無人のバスで男に抱かれているところを。閉められたカーテンのほんの僅かの隙間から、見えてしまった。
もちろん、すぐに目を逸らした。とても見ていられなかった。それなのに、何度も何度も瞼の裏に蘇る。乱れた制服、はだけた胸元、汗ばんだ肌に、上気した頬、そして夢見心地の瞳。ほんの一瞬、ほんの僅かの隙間から覗いてしまっただけの光景が、頭から離れない。
そして、その光景を思い返す度、言い知れぬ熱がこの身に渦巻く。そして、どうしようもない自己嫌悪に苛まれる。
結局のところ、曜介はあの頃から何も変わっていないのだ。幼かった真尋を襲い傷付けた、あの醜い大人が持っていたのと同じ衝動を、いまだ飼い馴らすことができずにいる。それどころか、ますます肥大化していっている。心の奥に何重にも鍵を掛けて閉じ込めている悪魔が、いつ暴れ出すか分からない。
沖縄で過ごす最後の夜だというのに、曜介は全く寝付かれなかった。青い海が肌を焦がしたからではない。隣のベッドで眠る真尋の背中が、これまでになく遠く感じたからだ。いくら目を瞑っても、寝返りを打っても眠れないので、曜介はこっそり部屋を抜け出した。
ラグジュアリービーチリゾートと銘打っているだけあって、ホテルのすぐ目の前にはプライベートビーチが広がっている。
修学旅行生はもちろん、多くの観光客で賑わっていた海が凪いでいた。決して陰ることのなかった太陽が、いまや海の底へと沈み、海上を駆け抜けていた潮風は、死んだように眠っている。静かに寄せる波の音だけが響き、他は全て無音である。あの騒がしさが嘘みたいだ。全てが夢幻と消えてしまった。
「おい」
砂を踏む足音がした。真尋だった。曜介は振り返らず、ただ海だけを見つめていた。
「悪い。起こしたか」
「いや……おれも眠れなかった」
真尋は曜介の隣に腰を下ろした。白い砂がさらりと崩れる。
静かな波が寄せては返す。白い渚を洗い流しては海へと返る。弾けた飛沫が白く光る。
黒いばかりの海の真上に、丸い月が昇っている。冴えた光が水面を照らし、星屑を散りばめたように光っている。
「……してみるか」
真尋が言った。白い砂の上、小指と小指が密かにぶつかる。
「……」
曜介は、何も言わずに真尋を見た。黒く澄んだ瞳が、真っ直ぐに曜介を見つめていた。ただ曜介の姿だけを、その瞳に映していた。
「……」
「……」
いつまでそうしていただろう。永遠のようにも思えたし、瞬きの間であったようにも思う。澄んだ波が百万回渚を濡らし、砂の欠片に星明かりが灯る頃、二人は唇を合わせた。
海のようなキスだった。どこまでも青く透き通った珊瑚の海だ。日に焼けた潮風や、気まぐれな波や、そんな香りのするキスだった。どこへ行く当てもない、この不確かな世界で互いの存在だけを確かめようとするような、そんなキスだった。星屑が夜空を滑って海に落ちる。
胸を押されて突き飛ばされた。黒く澄んだ瞳が、今にも泣き出しそうに見開かれる。真尋は何かに恐怖し口を覆った。
「……ごめん」
それだけ言うのが精一杯だった。深い深い闇の中、寄せては返す波の音だけを聞いていた。
真尋は決して曜介を許しはしないだろう。曜介が心の奥深くに隠し持っている劣情を、暴力的な衝動を、真尋はきっと知っている。許されたいと願うことさえ罪深い。炎よりも熱く燃え立つこの思いには蓋をして、十字架として一生背負っていかなくてはならない。
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