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離別④-♡
奇跡でも起きているのだろうか。仄白い街灯に照らされた、一人暮らしのアパートへの帰り道を、澄んだ夜風に吹かれながら、真尋と二人で歩いているなんて。今夜だけで一生分の運を使い果たした気さえする。
「適当に座っといて。あ、その前に窓開けて。換気してぇ」
この部屋に来客があるのは久しぶりだ。彼女と別れて以来、初めてのことである。独りで持て余していた部屋が狭く感じる。窓を開けると涼しい夜風が入ってくるが、室温は上がる一方だ。
コンビニで買ったつまみを皿にあけ、グラスに氷を用意して、本日二度目の乾杯をする。グラスが澄んだ音を奏でた。
何となく気取って味わうふりをしてみたが、本当は酒の味なんてどうでもよかった。静かにグラスを傾ける真尋の横顔を見ているだけで、酔ってしまいそうだった。
「お前さ、なんでこっち戻ってきたの」
「なんでって」
「てっきり、東京で就職するもんだと思ってたからさ」
「それはお前だってそうだろ。なんで戻ってきたんだよ」
「そりゃあ、やっぱ、親父一人残しとくのもな」
「おれだって同じだ。婆ちゃんももう歳だし、母さん一人じゃ大変だろうと思って」
「実家に住んでんの」
「いや。でも週末には帰るようにしてる」
「親孝行してんなぁ」
「お前はどうなんだよ。ちゃんと実家に顔見せてんのか」
「俺はまぁ、適度に? いいんだよ。うちの親父、歳の割に元気だし。京太郎もいるしな」
「ああ、あいつ」
まだ少しぎこちなさは残るが、会話は続いている。共通の話題として、もう一人の幼馴染のことが自然と口の端に上った。
「剣道、まだ続けてるんだろ」
「ああ、親父ンとこ通ってるらしい。今度昇段審査受けるってよ」
「結局、最後まで続いたのは京太郎だけだったな」
「だな」
まだ小学生だった頃、最初に剣道をやめたのは真尋だった。曜介は中学で剣道部に入ったが、真尋がいないのでは張り合いがなく、すぐにやめてしまった。京太郎だけは、高校大学と剣道部に所属して、大人になってからも道場通いを続けている。
「それにすっかり偉くなっちまって。今じゃ大学の先生だろ」
「びっくりだよな。俺らン中じゃ、勉強はお前が一番だったのに」
「それを言うなら、おれはお前が高校で先生やってることの方が驚いたぜ。意外に勉強できたんだな」
「おいそれどういう意味だよ。大学で死ぬほどがんばったんですー」
子供じみた軽口なんかを言い合って、グラスの中身は一向に減らない。
話しぶりから察するに、真尋も京太郎とは連絡を取っていたのだろう。地元に戻って養護教諭として働いていることも、京太郎はきっと知っている。だが、曜介がそのことを尋ねても、きっと教えてはくれなかった。真尋に口止めされているだろう。曜介がそうしていたのと同様に。
お互いに会おうとしなかったし、きっと会いたくなかった。けれど、何の因果だろうか。再び巡り合ってしまった。会いたくなかったはずなのに、どうしてか胸が高鳴っている。会いたくなかったはずなのに、夜が明けなければいいと願っている。
「吸っていいか」
真尋がポケットから煙草を取り出した。テーブルの上には灰皿がある。陶器製の、少し洒落たものだ。
「いいけど。吸うんだ」
「ああ。一本やろうか」
「遠慮しとく」
「ふぅん」
薄い唇に煙草を銜え、先端にライターを近付ける。薄闇に赤い火花が散る。息を吸いながら先端を炙る。やがて火がつき、蒼い煙が立ち上る。
ふぅ、と一息ついて、真尋は窓のサッシにもたれた。物憂げな手付きで、煙草の灰を灰皿に落とす。
「元カノが愛煙家だったのか」
「……まぁ、な。俺も何回か試してみたけど、咽せちまってダメだった」
「はは。だせぇな」
「笑うなよ」
「……彼女と別れたばっかりってのは、本当だったんだな」
そう言って笑った真尋の瞳がどこか寂しげで、どきりとした。
「……お前だってさっき、同じこと言ってたろ」
「あれは、お前の真似をしたんだ。本当は彼女なんて……いや、男とだって、最近は全然してねぇよ」
十年の月日は長い。曜介がそうだったように、真尋もあの箱庭を飛び出して、外の世界を知って、新しい価値観に触れて、酸いも甘いも積み重ねてきたのだろう。変わらないものがあれば、変わるものも当然ある。何もかも昔のままなんて、そんなものがあるわけない。
今また、真尋が何を考えているのか、曜介には分からなくなった。会いたくなかったはずなのに、なぜ家に来てくれたのか。彼女の残した灰皿を見て、なぜそんな顔をするのか。分からない。昔からずっとそうだ。こんなところだけ、いつまでも変わらない。
白い指に、白い煙草。唇で銜えて、ゆっくりと吸う。口の中で煙を転がし、ゆっくりと吐き出す。揺らめく紫煙が、光を反射して煌めいて見えた。
「なぁ、」
真尋が、何か言いたげに曜介を見た。そして次の瞬間には、ほろ苦い味が口に広がっていた。
「咽せねぇな」
真尋はいたずらっぽく笑った。ほろ苦いだけじゃない。仄かな甘みが、一足遅れて追ってくる。
「なぁ、曜介」
ゆっくりと、スローモーションのように唇が動く。
「あの日の続きをしようぜ」
窓から差し込む月明かりが眩しかった。今夜が満月だったことに、曜介は今になって気付いた。
真尋に触れた手が震える。肩を掴んで、抱き寄せて、唇を合わせた。
やっぱりほろ苦い。そして仄かに甘酸っぱい。しかし、この温もりはあの頃のままだ。そんなことあるはずがないのに、どこからか潮風が香った。
角度を変えながら、何度も何度も唇を触れた。唇の柔らかさや、温もりを味わうように。優しく触れて、少し離れて、また触れて。睫毛の長さを肌で感じた。
「……いいのかよ」
真尋は何も答えない。また唇が触れた。
曜介は真尋の頬に手を添える。唇を湿らせて、そっと舌を滑らせた。初めてキスをする子供みたいに緊張した。
真尋は小さく口を開け、舌を受け入れた。口の中で舌先が交わる。火傷しそうに熱くて、だけど柔らかくて、舌先から溶けてしまうように感じた。
曜介は真尋を強く抱き寄せた。唾液を含ませ、何度も舌を重ね合わせる。熱病に憑かれたように体が火照る。真尋の唇から漏れる吐息が熱っぽく、それさえ呑み込んでしまいたい衝動に駆られる。
真尋の手が曜介の背中に回される。恐る恐る指先で引っ掻いてから、ぎゅっと握りしめられる。服に皺が寄っている。
手探りでクッションを引き寄せて、真尋を寝かせた。真っ直ぐに曜介を見上げる瞳は、昔のままに黒く澄んでいた。
許されるだろうか。これ以上触れてしまっても。全てを手に入れたいという衝動と、正しいことを成し遂げたいという自制心が葛藤する。
「あっ……」
声がした。もちろん、真尋の声だ。こんな声で喘ぐなんて、全く知らない──知る由もないことだった。曜介の手は、いつの間にか真尋の素肌に触れていた。
舌の上に唾液が溢れて、思わず喉を鳴らした。ゆっくりと手を滑らせる。薄い脇腹から、細い腰へ、ズボンのウエストに指を引っ掛けて、さらに深い場所へと潜っていく。
「……お前こそ、いいのかよ」
曜介の腕を掴んで真尋が言う。声が微かに震えていた。
「……お前がいいんだ」
曜介が答えると、真尋は曜介の腕を掴んだまま、そっと引き寄せた。
「優しく、してくれ……」
「……」
意外な弱さを見せられて、ますます自制心が揺らぐ。優しくできそうにない。
幸い、引き出しに使いかけの潤滑ゼリーが眠っていた。適量を手に取って温めながら下着を脱がすと、真尋は恥ずかしそうに目を伏せた。
久しぶりだというのは本当らしかった。女とはしていたかもしれないが、少なくともここしばらく男とはしていないだろう。男とするのなんて初めてなのに、曜介は何となくそう思った。まるで冬の蕾のように固く強張っていて、曜介の指を拒むのだ。
「痛い?」
曜介が尋ねても、真尋は首を横に振るばかりだ。萎えてしまった性器が不憫で、蕾を解すのと同時に優しく揉んでみる。
「っ……」
ピクッ、と微かだが反応を示した。兆し始めた性器を、さらに強めに撫でてみる。
「あっ……」
感じているのだろうか。声色が艶を帯び始める。固いままだった蕾も、少しずつ綻び始める。
「んっ、ン……あっ、はあっ……」
もう堪え切れないという風に切れ切れに喘いで、白い肢体を捩じらせる。後ろの穴が引き攣れて、曜介の指を食んでいる。
「っ、もう、いいから……」
真尋の手が曜介の下腹部に伸びる。
「挿れろ」
「っ……」
いいのだろうか。本当に? だが、そんな葛藤など無言で通り過ぎてしまう。曜介は服を脱ぎ捨てた。コンドームを着けようとすると、真尋に止められた。
「いい。そのままで」
「でも」
「いいから」
「……」
「……お前が嫌なら……」
嫌だなんて、そんなはずがないのだ。曜介は未使用のコンドームをゴミ箱に放った。真尋の足を掴んで引き寄せて、触らずともいきり立っていた切っ先を突き立てる。そのままゆっくりと、体重をかけて腰を進める。
「もうちょい力抜いて」
「っ、ん……」
十分には解し足りなかったらしい。真尋のそこは、かなり狭い。苦しそうに眉根を寄せる。その顔を見ても後戻りができなくて、曜介は無理やりにでも奥を暴いた。
「ああっ!」
貫いた瞬間、悲鳴にも似た声が上がった。それと同時に、肚の奥がビクビクと痙攣した。
「真尋……?」
挿入の衝撃で体が仰け反り、その勢いで頭を床にぶつけたらしい。後頭部にクッションを敷いてやりながら、曜介は真尋の顔を覗き込む。
「真尋……」
ぽたぽたと雫が落ちた。真尋が泣いているのだ。そう思ったが違った。曜介の汗が真尋の頬を濡らしているのだった。窓から差し込む月影が、二人を優しく照らしていた。
好きだ、と思った。どれだけ言い繕ったって、どれだけ理屈を捏ね回したって、好きだ。この気持ちをなかったことにはできない。隠し通すことなどできない。どうしようもなく、自分でも呆れるほどに、真尋が好きだ。
「よ、すけ……」
真尋の手が頬を撫でる。指先が瞼に触れて、流れる汗を拭ってくれた。この手の温もりを、曜介はずっと前から知っているのだ。
ただただ大切にしたかった。この温もりを守りたかった。だからこそ傷付けるのが怖くて、そして傷付くのが怖くて、いつしか抱きしめることさえできなくなった。本当は、ただ、そばにいたかっただけなのに。
会いたくなかった、なんて、あんなの嘘っぱちだ。本当はずっと会いたかった。ずっとお前を探していた。一旦県外へ出たのに、おめおめと地元へ戻ってきたのは、それが唯一の繋がりだったからだ。たとえ二度と会えないとしても、一緒に育ったこの街で、お前の名残を抱いて死んでいけるなら、それでいいと思ったからだ。
色々なものを諦めて、今の場所に辿り着いたと思っていた。しかし実際は、何も捨てられてなどいなかった。大切なものを見えない場所に仕舞い込んだだけで、失くしたものと思い込んでいた。本当は、ずっとここにあったのだ。
そして今、未来にも過去にも行けずにいる。曲がり角で立ち止まったまま動けない。
曜介は、思いの丈をぶつけるように真尋を抱いた。優しくしたかったがどうしようもなく、唇がふやけるまでキスをした。深く舌を突き立てて、うねる口内を掻き回し、飛沫を跳ねて唾液を混ぜる、そんなキスをした。真尋の舌が切なげに震え、曜介のそれに絡み付く。
曜介に激しく揺さぶられながら、振り落とされまいとして必死にしがみついてくる真尋の姿がいじらしかった。絡む指先や、濡れた唇、震える睫毛。星の海のような瞳。全てから目が離せない。
シャツのボタンを外して、邪魔なものを全て取り去った。汗ばんだ肌が心地よかった。肌と肌を重ねて抱きしめ合った。この夜が永遠になればいいと思った。
*
喉の渇きに目が覚めた。閉め切った部屋は温室みたいに暑い。曜介は重い腰を上げて窓を開けた。
蝉が鳴いていた。夏が始まる。布団の中身は空だった。
昨晩、真尋を抱いたのだ。終わるのが怖くて、何度も何度も何度も抱いた。この夜が永遠になればいいと思った。けれど、朝はあっさりと訪れた。真尋は既に行ってしまった。
見慣れた部屋がやけに侘しい。六畳の和室が広く感じる。曜介を嘲笑うかのように、空は青く澄み渡っている。
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